七つの金印 日本史アンダーワールド

 論理的に完璧な空想は、もはや空想ではなく”事実”である、などといったことをどこかの名探偵が言っていたような気もするが、それはともかく空想を論理によって完璧に裏打ちし、誰も疑いを差し挟む余地のない”事実”へと発展させるのは、決してた易いことではない。

 たいていの空想は、論理的な整合性を得られず、発展性を持たないまま、単なる思いつきの範疇に留まって、忘れ去られていく。空想を”事実”へと発展させるには、たとえ著しく主観的な空想であっても、それをひねり出す閃きがまずあって、なおかつ閃きに肉付けして、”事実”として形を練り上げていくための論理、そしてその論理を裏付けるだけの知識が必要になって来る。

 「国宝金印は偽物である」。この空想は決して新しいものではなく、それこそ金印が発見された当時から、時代が変わって明治、大正、昭和へと流れる新時代に至るまで、繰り返し議論されては結果として結論の出なかった空想だろう。結論が出なかったという意味では、むしろ思い付きに近いかもしれない。

 ならばやっぱり単なる妄想なのか。それとも結論は正解ながら、途中を繋ぐロジックと、そのロジックを裏打ちする知識だけが欠けた”事実”なのか。明示されてから200年に及ぶ「金印」をめぐっての歴史ミステリーに、稀代の奇想家にして圧倒的な知識の保有者でもある明石散人が、持てる能力を注いで挑んだのが、小説仕立ての本書「七つの金印 日本史アンダーワールド」(講談社、2000円)だ。

 史学科に学び歴史に詳しく、テレビの歴史番組の企画といった仕事にも時折携わる北畠克史という青年と、外務事務次官の娘で名家の出ながら、小さい出版社で働き各地を探訪してはルポを書く、これまた歴史に詳しいマキという名の女性が主人公のこの小説。その本編は、足利義満が明から贈られたという、「日本国王之印」と刻まれた金印が、男鹿半島にある雄山閣という温泉旅館に飾られていたのを、マキが見つけて克史に伝えた場面から幕を開ける。

 誰もが偽物と思うその義満の金印を、なぜかマキは真印と主張し、羽黒山で古代の宝を発掘するテレビ番組の仕事を手伝っていた克史を、当の温泉宿へと呼びつけ見せようとする。けれども時一瞬遅かったようで、2人が雄山閣に到着した朝、東京の築地に住む明石という名字の男によって、金印は買われ持ち去られてしまっていた。

 いったい明石とは何者なのか。そもそも雄山閣にあった「日本国王之印」は本物なのか。真偽を目で直に見、耳で直に聴くべく2人は築地へと出向き、明石という名の男の家へと上がり込んで説明を求める。そこで2人は、「日本国王之印」の真偽を遥かに上回る、史上でも最大規模の謎に直面することになる。

 日本に中国から贈られた金印は4つ。そのうち、すでに鋳潰されたことが分かっている豊臣秀吉の「日本国王之印」と、未だ所在がはっきりしない卑弥呼の「親魏倭王」を除く2つを、明石という男は持っているのだという。1つは雄山閣から6000万円という、本物なら安過ぎ、偽物だったら高過ぎる値段で引き取ってきた義満の「日本国王之印」。そしてもう1つは、天明4年、1784年に筑前国那珂群志賀島で甚兵衛なる男によって掘り出され、今は福岡市博物館が所蔵している金印、「漢委奴国王」と刻まれた、あの有名な金印だというのだ。

 「国宝金印は偽物」なのか。それともやっぱり本物なのか。克史とマキによる、壮大な空想と膨大な史料による歴史の探求が始まり、物語は一気に激しさを増す。推論を立て理論で補強し、あるいは理論を土台に推論を組み上げる繰り返しから、2人はとてつもない”事実”を導き出す。そして明石も史料を駆使し、空想を膨らませた挙げ句の同様にとてつもない”事実”を明示する。

 巻末にずらりと並べられた参考文献の数々と、組み上げられた遺漏のないロジックが、迫真の勢いで読む人に「国宝金印」の真偽を突きつける。「国宝金印」の発見当時、その真偽を鑑定した学者、亀井南冥の立場や持っていただろう野心、その亀井を取りまく学問的・政治的状況にまで踏み込んでの空想を、史料によって裏付けていった結果現れた”事実”に驚く。そうだったのか、と蒙を啓かれる。

 もっとも、繰り出されるロジックを裏打ちする史料が、すべて実在しているのかと問われると、正直なところ分からないし、ロジックのどこかに空想を”事実”たらしめる史料のない、飛躍した思い付きが紛れ込んでいないとも限らない。それを知るにはとにかく知識が必要だが、相手は文中登場する明石以上に豊富な知識を持ち、且つ奇想に飛んだ明石散人。挑み撃ち負かすのは容易ではない、というより不可能に近い。やはり信じるべきだろうし、だいいち信じた方が面白い。

 ただし、ラストで再び投げられる問いかけが、信じたい気持ちを再び歴史の謎へと引きずり込んで、翻弄する。論理的に完璧な空想が作り出した”事実”だからといって、それが”真実”とは限らないという矛盾。それを示唆することによって、歴史を扱う人々に、高い意識を持って事に取り組むよう、訴え掛けているような気もする。

 そうしたメッセージはメッセージとして、楽しむべきはやはり”事実”を空想によって紡ぎ上げる技の冴え、あるいは繰り出される豊潤な知識や蘊蓄だろう。「天皇御璽」と「大日本国璽」の大きさをめぐるエピソードは、天皇を象徴として仰ぎ見つつ、その実政府が実権を握り、本来の主権者たるべき国民を見下し続ける、狡猾さに溺れ曖昧さに漂うこの国の在り方を示しているようで、面白い。

 ほかにも多々ある謎に示される解、浮かぶ疑問に得られる知識を存分に楽しみながら、繰り広げられる歴史ミステリーの深淵へと迫ってみてはどうだろう。”真実”よりも面白い”事実”が、必ずやそこにあるだろうから。


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