軌道通信

 宇宙には子供がよく似合う。使い古された言い回しに、ちょっと恥ずかしい気持ちもあるけど、それでも宇宙を舞台にした小説には、子供たちが活躍する話が数多い。オーソン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」、竹宮恵子の「地球(テラ)へ」、富野由悠紀の「機動戦士ガンダム」などなど。「重力に魂を囚われた」大人たちでは決して得ることのできない才能や技能や超能力を武器にして、宇宙で育った子供たちは地球を救い、仲間たちを救い、人類を救うために先頭に立って戦う。

 アメリカのSF作家、ジョン・バーンズの本邦初訳となる「軌道通信」も、そんな「宇宙の子供たち」が、主人公になって活躍する話の1つだ。ただし、地球侵略とか地球への思慕とか地球への反感とかいったドラスティックな対立構造のなかで、子供たちの秘められた能力が発動するといったダイナミックなストーリーではまったくない。転校生、いじめっ子、仲間はずれ、初恋・・・。学校生活にはつきものの、今の子供たちだって1度や2度は経験するような出来事を、宇宙の子供たちが経験していく話に過ぎない。けれども、そんな出来事のすべてが、大人たちの計算の上に起こっているという事実から、ストーリーは単なる学園ドラマ宇宙版の域を超えて、宇宙空間に浮かぶ小惑星宇宙船を1種の孵化器に見立てた、壮大なSF的仕掛けが見えてくるのである。

 主人公のメルポメネーが、先生から地球の人に惑星宇宙船での暮らしを紹介する話を書きなさいといわれて書き始めた手記。そこでは地球からの転校生が、それまでクラスのボスだった少年にとって変わって君臨するようになったいきさつが語られる。そして、ふとしたきっかけからメルポメネーと親しくなった元ボスが、もう1度クラスのみんなから親しまれ尊敬されるようになって、地球からの転校生と仲良くなるところで終わる。これがタテの糸。

 ヨコの糸には、地球から宇宙へと人が移り住むようになり、宇宙により適応した人材を育てるための実験が、惑星宇宙船の中で行われているという舞台背景が当てはまる。転校生もいじめっ子も仲間はずれも、すべてが大人たちの計画のもとに起こった出来事で、そこでの経験はみな、子供たちを宇宙船の乗組員として育てるために仕組まれていたことが解ってくる。人を包容する優しさを持った子供に育ったのも、寂しさを攻撃によって紛らわす子供に育ったのも、家庭環境、学校の仲間たち、与えられる問題といったすべてにわたって、綿密にプログラミングが施されているのである。驚くべきことは、当の子供たちの1部は、すでにこうした事実を知っており、にも関わらず宇宙船のためという大義名分のもとに、プログラムを受容してしまえる精神構造を持っていることである。これすらもあらかじめプログラミングされていたことなのだろうか。

 与えられた認識を、自己の認識として昇華してしまったということなのかもしれないが、あるいは矛盾に満ちた世界で小利口に立ち回って生きている今の僕たちに、子供たちがいかに大人の理屈に毒されて、それを当然の顔をして受け入れてしまうようになるのかを見せつけて猛省を促す、皮肉に満ちた話なのかもしれない。ちょっと穿ちすぎだろうか。

 そんなスレた見方は放っておいて、純粋に少女の成長物語として読むだけでも、存分に楽しめる作品。宇宙の子供たちの自由奔放な暮らしぶりを、はらはらしながら見守っているうちに、自分はもう、世界の秩序に組み込まれた大人になっていたんだなあと思い知らされ、もう1度子供の世界に戻れたら、あるいは宇宙の子供の世界に進めたら、どんなに楽しいだろうと気付かされた。

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