剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。

 もしも老衰でしか死ぬことがない世界に生まれたとしたら、人はどのような生き方をするようになるのだろう。誰も老衰でしか死なない世界があったとしたら、社会はどのような雰囲気になっているのだろう。ツガワトモタカさんによる「剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。」(HJ文庫、619円)はそんな、老衰以外で人が死ぬことがなくなった世界が舞台になった物語だ。

 死なないといっても、刺されたり撃たれたりすれば、その場でひとまず息は途絶える。けれどもすぐさま、近くにある神殿で記憶もそのままに蘇って、元通りの暮らしを続けられる。どこかRPGのキャラクターを思い起こさせる設定。というか、そうした世界をを成り立たせているのが、ウルティマラティオというオンラインRPGのような名前を持ったシステムだったりする。

 「新暦」と呼ばれる新しい時代の到来とともに、ローゼンクロイツなる存在によって作られたのがウルティマラティオ。ネットワーク上にすべての生命を電子化して移したのか、世界を覆うコンピュータのようなシステムを形成したのか。そこは分からないけれど、ともかく人は、そのウルティマラティオの恩恵の下、500年近くにわたって一生をとことん満喫できる状況で暮らしてきた。

 殺しても殺されてもすぐに蘇るのなら、気に入らないことがあったらすぐに殺したりするような、文字通りに殺伐とした雰囲気になっても良さそうだけれど、刺されれば痛いし食べさせてもらえなければ飢餓感が募る。殺した罰として半殺しの状態に置かれたり、食べ物を与えられなかったりする刑を課せられてはたまらない。蘇る時には酷い二日酔いが3日間くらい続くような苦しみもペナルティとして与えられるから、敢えて死のうとも思わない。だから社会は平穏に500年近く運営されて来た。

 そこに事件が持ち上がる。世界が「新暦」になる前に現れ、地上を破壊し人類を滅亡の縁へと追いやったアマデウスという怪物が再び現れ、暴れ回った。このアマデウスに殺された人はウルティマラティオの恩恵が受けられず、蘇ることがなかった。エイジ・ハウルという少年の両親は暴れ回るアマデウスによって消され、彼が知り合うことになる近衛騎士の少女、ララセル・ラングリラの両親も、アマデウス討伐の戦いで命を落とす。

 死んでもすぐに生き返るというルールの上で、長い間暮らしてきた人間たちにとって、死んでしまったらそれっきりという状況は恐怖をもたらす。幸いにしてアマデウスは、ララセルの両親を含む最強の騎士が6人がかりでようやく倒すことができた。それでも2人が犠牲になった。それほどまで強大なアマデウスがまた現れたら、今度こそ世界は潰えてしまうかもしれない。そこで活躍するのがエイジだった。

 彼は生まれながらにウルティマラティオの恩恵が届かず、寿命が来る前でも病気や怪我で死んでしまい、生き返るもない運命を背負っていた。その代わりに、世界が「新暦」に変わる前に育んでいた機械文明を蘇らせ、操る資格を持っていた。ローゼンクロイツによって作られたという、機械を扱う工房を長く管理してきたテンコという名の不思議な少女を従え、世界に存在する魔法など遠く及ばないパワーを持った機械兵器を作り出して、密かにめぐらされていたアマデウス復活の謀略に立ち向かう。

 殺しても殺されても蘇る世界だからといって殺伐とするとは限らないが、逆にまったりとして変化に乏しい世界にはなってしまうかもしれない。明日死ぬかもしれないからこそ人は、自分にできることを早く成し遂げようと頑張り、新しい物を生みだそうと努力する。アマデウスという存在は、どこか緩んでしまった世界のネジを撒いて人に進歩を促そうとしているのかもしれない。あるいはそういう意図を持って送り込まれているのかもしれない。

 もっとも、ウルティマラティオの恩恵によってもたらされる平穏が、悪いものとは限らない。ララセルは与えられた一生を懸命に生きている。彼女が使える女王のクラリッサも、国民が平和で暮らせるように毎日がんばっている。産業革命以降の技術的な発展が、人の暮らしを豊かにする一方で、世界をだんだんと疲弊させていった歴史を見るにつけ、急ぎ進化していく必要はあるのだろうかといった考えも浮かぶ。

 ウルティマラティオの恩恵が与え続けられるべきなのか。アマデウスの存在は世界にどんな意味があるのか。そのアマデウスを復活させようと目論む組織の狙いはどこにあるのか。そして人は与えられた一生をどのように生きていくべきなのか。いろいろと考え、そして答えのようなものが明かされる続きを待ちたい、そんな作品だ。


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