1984年といったら、村上春樹が大ベストセラーの「1Q84」で舞台にしていた時代。携帯電話や電子メールはまだなくて、音楽はFMラジオから流れてくるのを聴いたり、家にあるプレーヤーに30センチもあるLPレコードを乗せて聴いていた。

 それだと学校帰りに違う学校の子たちと集まったり、電車で音楽を聴いたりできないんじゃないか。それでどうやって毎日を楽しく過ごしていたのか。いわれてみればたしかにそう。携帯を使えば、どこにいたって誰とだって連絡をとって集まれる。ヒット曲もネットからダウンロードしてiPodや携帯に入れて持ち出せる。そんな現代の便利さを知ってしまった目には、1984年はただただ不便な時代と映って当然だ。

 ホストクラブに舞い込む事件を、女性経営者が仲間たちと解決していくデビュー作「インディゴの夜」がテレビドラマにもなった加藤実秋の長編「風が吹けば」(文藝春秋、1524円)で、2009年から1984年へとタイムスリップしてしまった高校2年生の矢部健太が真っ先に感じたのも、そんな不便さと不思議さだったりする。自分の興味の範囲でしか動きたくないし、なにかに夢中になって汗を流すのも格好悪い。そんな価値観の中だけで生きてきた2009年の高校生には、1984年の世界は暑苦しくて押しつけがましくて鬱陶しいものに感じられた。

 誰かとしゃべりたいなら家の電話を使うか、直接会ってしゃべるしかない。ネットならあり得る知らない誰かとの出合いも起こらない。近所に住んでいる小学校のころからの知り合いが、誰かの家に集まって、漫画を読んだりレコードを聴きながら過ごすベタベタとした時間。不良集団の総長に呼び出され、彼が密かに思いを寄せる少女との仲を取り持つよう、脅され命令される熱い関係。2009年の自分の生活とはほど遠い、1984年の生活に健太はおおいに戸惑い、自分がいた時代に早く帰りたいと願った。

 そんな健太を助けたのが、腰パンで茶髪という1984年でははあり得ない姿の彼を、ちゃんとタイムスリップしてきた存在だと認め、家に連れ帰った久保田という高校生。オタクと分類されそうな姿や趣味をしていながら、不良少女たちとイタズラで学校のプールに乾燥ワカメをぶちまける社交性も持っていた久保田のおかげで、健太は総長が出してきた難題を切り抜け、逆に総長たちと仲を深めて、1984年の熱さの中にとけ込んでいく。

 そんな矢先。近所に大型の商業施設が進出しようとして、商店街に反対運動が起こっていた問題から発生した事件が、健太を巻き込み、久保田を街にいられなくし、不良集団を解散の瀬戸際へと追い込んでいく。開発の裏にいるのは力と金を持った大人たち。さしもの不良集団ももう無理だと意気消沈していたところに、まだ手はあるはずだとひとり行動を起こしたのが、熱血とも青春とも無縁に見えた健太だった。

 臆して動こうとしない1984年の不良たちを言い負かし、悪い奴らのところへと乗り込んでいく健太。2009年の現代ではまだ経験していなかった、濃密で熱い関係を経験することで、自分がなにかに夢中になれることを知り、健太は大きく変わった。

 その一方で、1984年に生きている人たちも、未来のセンスを持ち込んできた健太に刺激され、自分たち以上に熱さを見せはじめた健太の言葉に動かされて、変わっていく。ミュージシャンになる夢を引きずったまま、2009年になってもレンタルビデオ店で働いていた中年男が、ほどなくして成功をつかめたのも、大人になった久保田が、自分の進む道を見つけられていたのも、1984年にやって来た健太との出合いがあったからだ。

 2009年と1984年の、どちらの時代が良いとか悪いとかではない。どちらにもあるすばらしさをお互いに見せ、重ね合わせることで、より素晴らしいものを生み出していける。そんなことを、健太の時間を超えた冒険が教えてくれる。

 「1Q84」ではほとんど描かれていなかった1984年の風俗が、ふだんに盛り込まれているのも「風が吹けば」の特徴だ。藤井フミヤがいた「チェッカーズ」が、「涙のリクエスト」で女の子たちからキャーキャー言われ、久保田も含めた男の子たちは、デビューしたばかりの菊池桃子に夢中になっている話は、今の大人たちに、懐かしさとともに、ちょっぴりの気恥ずかしさを覚えさせる。

 久保田が好きで読んでいた漫画は、高橋留美子の「うる星やつら」や新谷かおるの「ふたり鷹」。そして健太が1984年の女子高生から借りて読んでいるのが「ハイティーン・ブギ」。1984年の女の子たちが恋のバイブルとあがめた漫画を描いた牧野和子が手がけた「風が吹けば」の表紙絵や挿し絵は、あの時代を知る人たちの記憶を鮮烈に蘇らせる。

 濃密な時間、熱い関係の中で得た経験は、風俗も含めて強く心に刻まれて、四半世紀を経てもすぐに浮かんでくる。これと同じようなことが、今の人たちに起こるのか。薄い関係の中で、簡単に得られる情報を消費していく状況から、四半世紀を絶えるような執着は生まれるのか。

 違うというなら、身をもって証明するしかない。好きなものをみつけ、むさぼり、そこから得た気持ちを誰かに伝え、そしていつまでも愛し続けるしかない。そうするだけの対象がないというなら、自分たちで生み出せばいい。健太ならそうするはずだから。そんな健太の変化に触れた人なら絶対にできるはずだから。


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