火星ダーク・バラード

 火星で科学者の手によって生み出された、超常的な能力を持つ新人類の少女たち少年たち。それが権力者たちによって巡らされる陰謀に巻き込まれ、また自らの内に秘められた強大な力に翻弄されて、哀しい運命をたどる。「第4回小松左京賞」を受賞した上田早夕里の「火星ダーク・バラード」(角川春樹事務所、1800円)は、こう聞くと科学的な設定の上に哲学的な主題が繰り広げられる、難解な物語なのかもしれないと思われてしまう。

 けれども実物はまるで違う。刑事物。バディ物。アクション物。そして純愛物。つまりは徹頭徹尾”エンターテインメント”した物語で、ページを開けば最初の1行から最後の1行に至るまで、どうなるんだろうどこへ連れていかれるんだろうとワクワクしながら読んでいける。なおかつその間に、人間のどうしようもなく愚かな部分、それでも人間のとてつもなく尊い部分を見知ることが出来て、読み終わった後に楽しさと、確かさを得られる作品となっている。

 水島烈は火星の治安管理局第二課第三班に所属する、地球流に言えば刑事として主に強行犯の捜査を担当していた。その日も水島は相棒の神月璃奈と連れだって、女性ばかりを手にかけて来た殺人犯のジョエルを追いかけ、追いつめ遂には捕らえることに成功し、護送するために璃奈といっしょに列車へと乗り込んだ。

 ところが、護送の途中で起こった事件が水島の運命を大きく変えてしまう。突然走った振動が水島たちの乗っていた車両を揺さぶり、身構えた水島の前に扉を破って後ろの車両から肉食恐竜に似た怪物が現れ襲い掛かってきた。反撃する水島だったが、細胞組織と脳を内側から焼く特殊なFV弾でも怪物は倒れず、水島はその牙にかかって意識を失う。

 そのまま死んでもおかしくない、深い傷を負ったはずだったにも関わらず、気がついた水島の体には傷ひとつなく、破壊された車両にも壊れた跡は残っていなかった。ジョエルは逃亡。相棒だった璃奈はFV弾で撃たれて死体となった姿で発見され、水島には犯人の逃亡を助け、璃奈を射殺したのでは、といった容疑がかけられる。

 刑事の仕事に強い誇りを持ち、真面目過ぎるくらいに取り組んできた水島が犯人と結託するはずがない。そう仕事の仲間は信じてくれた。けれども治安管理局の別の部署からは水島を執拗に疑う声があがり、璃奈の仇を撃つためにジョエルの捜査に戻りたいと訴える水島の邪魔をする。それでも諦めず、水島は上司が止めるのも聞かず、自分の足で真相を突き止めようと調査に乗り出したが、今度は管理局でもさらに別の、そして恐れられている部署から妨害が入り、さらには水島の命を狙って来る。

 いったい何が起こっているのか。璃奈の死にはどんな秘密が隠されているのか。怒りに震え戸惑いに揺れる水島の前に、ひとりの少女が現れ水島に事件の真相を知っていると告げる。その少女、アデリーンこそが「超共感性」と呼ばれる特殊な脳機能を持って火星で生まれた、「プログレッシブ」と呼ばれる新しい人類だった。

 幾世代にもわたって火星の上で行われてきた、人類の未来を遺伝私的な操作によって拓こうとする実験。その結果として生み出されたアデリーンの、人間としての幸せとは無縁のまま、はるか外惑星へと追いやられるだけの絶望的だった運命。それが、地球で刑事をしていた父親との関係から生じた心の傷を抱えながら、同じ刑事として火星で情熱的に働く水島の運命と交差して、大きく変わり始める。

 アデリーンの誕生に関わったひとりの男の、モラルを越えた探求心と激しい功名心が、アデリーンを縛りまた、水島を排除しようと彼らに迫る。男の権力を担保していた火星を支配する権力者たちの思惑も重なって、絶体絶命の立場へと追い込まれて行く水島とアデリーンは、果たして無事に幸せを掴むことができるのか。璃奈殺害の事件の真相を暴こうとするミステリータッチの物語に、迫る危機をかわしあるいは突破していくアクション満載の物語が、読む人の心を踊らせ、ページを繰る手を休ませない。

 そしてクライマックス。重力の低い火星ならではのシチュエーションに、アデリーンが持つ「プログレッシブ」としての人知を越えた強大な力が重なって生まれた、壮大な仕掛けの上で繰り広げられるスペクタクルな物語に、目を見張らされる。これが映像なら、というより映像に仕立て上げられたなら、眼前に映し出されるとてつもないビジョンに誰もが圧倒されたことだろう。

 萩尾望都の傑作SF漫画「スター・レッド」とも相通じる、火星が子宮のような役割を果たして生み出された新しい人類たちが、旧い人類たちとの折り合いに苦しみ、果ては火星を捨てざるを得なくなってしまう展開に、人間という生き物の特別な存在を認めようとしない、むしろ恐れ排除しようとする小ずるさ、臆病さ、小ささを感じてやるせない気持ちに駆られる。

 そうした中でもアデリーンの想いを理解しようとする水島の優しさや、彼の生真面目さに絆され協力を惜しまない同僚たち、友人たちの気持ちよさには、人類にわずかでも残されている良心を見て嬉しくなる。自らの危険を顧みず命の危機さえおかしながらも一途な想いを貫こうとするアデリーンや、彼女を信じて身を危険にさらす友人の強さに、是非にも応えなくてはと思わされる。

 30歳を過ぎたしがない刑事が、まだ10代の美少女と知り合いになってあまつさえ……といった展開に嫉妬のひとつも覚えたくなる人も少なからずいるだろう。そこはまだ年若く純粋な上に「プログレッシブ」として他人の心に共感しやすいアデリーンにとって、実直で心に傷を抱えた寂しい独身男性の心は麻薬的な魅力を放っていたのかもしれないと理解するのが良いのかもしれない。


積ん読パラダイスへ戻る