トータル・パフォーマー
完全演技者

 当時は平凡出版といった今のマガジンハウスから出ていた「POPEYE(ポパイ)」という雑誌で1980年代初頭、おそらくは1981年から82年にかけて1人のミュージシャン1度ならず数度にわたって紹介されていた。名をクラウス・ノミといった。

 冒頭の全世界から集めた様々な話題を紹介するコラム「POP−EYE」だったか、あるいはニューヨークのアンダーグラウンドなカルチャーを特集した記事に、パーティー参加者の1人として登場していたか。定かではない記憶の中にあってただひたすらにその奇抜な風貌を持ち、奇態なファッションに包まれたクラウス・ノミの存在が、強い印象を持って脳裏に刻み込まれた。

 1度はそうしたパーティーにおけるトリックスター的な扱いだったクラウス・ノミが、最後に登場したのは、同じく「POPEYE」の誌上で1983年前後のことだっただろうか。海外からの情報として伝えられた「ゲイだけがかかる奇病」といった感じで紹介されていた「AIDS」に、クラウス・ノミがミュージシャンとして初めて罹病し、死んだといった記事が掲載された。

 今となては、そうした記事が本当にあったかを確認する術はない。皆無ではないが難しい。したがって後年に脳内でねつ造された模造記憶かもしれない可能性はあるが、事実だとしたら「POPEYE」という雑誌は、文化においても流行においてもファッションにおいても、あらゆる情報において当時の最先端を走っていた雑誌だったのだということが伺える。

 もっとも、他に多々登場したミュージシャンたちの中でも、クラウス・ノミが特に強い記憶となって脳裏に残っているのは、それだけ彼の存在感が強烈だったからに他ならない。なればこそ近年、クラウス・ノミの活動を振り返ったドキュメンタリー映画の「ノミ・ソング」が公開されて若者達の間でヒットし、彼の音楽を再評価する動きが起こったのだろう。

 そして「オルガニスト」や「われはフランソワ」といった著作を持つ山之口洋が、「完全演技者 トータル・パフォーマー」(角川書店、1500円)という物語を描いてそこに、クラウス・ノミを蘇られたことも、同じくクラウス・ノミが25年近い時を経てなお大勢の脳裏に強い印象を残していることの現れだ。

 1980年代初頭にロック・オペラをひっさげニューヨークの音楽シーンを席巻したミュージシャン。白面に塗りたくった顔を魔法使いとも未来人ともつかない奇抜な衣装で包んでステージに立ち、カウンターテナーの高音でクラシックからオペラからロックから、あらゆるジャンルの音楽を唄ったシンガー。

 あのデビッド・ボウイの知遇も得て、さあこれからと期待された矢先に、当時は未だ謎の病気とされたAIDSに罹り死去するという、その点でも時代の最先端のさらに先を疾走して去っていったクラウス・ノミ。その絢爛にして破天荒な生き様が、クラウス・ネモと名前を変えられながらも、同様のパフォーマンスをする男として「完全演技者」に登場し、蘇る。

 日本でロックバンドを組んでいながらも、パンク好きなリーダーの方針に従えず止めた井野修。バイト先の洋楽レコード屋で聞いたクラウス・ネモの音楽に惹かれ、いても立ってもいられず渡米し、そこで渡米に際して案内役を買ってくれた音楽ライターに連れられて、クラウス・ネモのライブへと赴き、クラウス・ネモたちが繰り広げた空前絶後のライブへを聴いて衝撃を受ける。

 音楽ライターの突撃につき合いクラウス・ネモに接触できた井野修は、なぜかそこで彼らから誘われ、そのまま帰国もせずにクラウス・ネモのグループに入れられてしまう。徹底したパフォーマンスで世間の目を欺き続ける、というより己の内奥から外観からすべてを変貌させてしまうことを旨としていたクラウス・ネモは、オサムをシュウと読みシュウ・イーノと名を変えさせ井野修を鍛え上げ、クラウス・ネモそのものになれるくらいにしてしまう。

 しかし好事魔多し。というよりそもそもネモに魔が予見されていたからこそ、シュウ・イーノにとっての好事となったのだろう。現実のクラウス・ノミさながらに、デビッド・ボウイのプロデュースも得て順風満帆に見えたクラウス・ネモに襲いかかった、これも現実のクラウス・ノミと同じ運命が、クラウス・ネモを支えたボブBを巻き込みジェニファーを巻き込み、シュウ・イーノも巻き込んでは、不安と恐怖、怒りと悲しみが渦巻く世界へと叩き込む。

 出自も謎なら経歴も不明のクラウス・ネモは、過去を決して明かさないままステージでも路上でも、完全なまでの演技者たらんとし続ける。支えるメンバーのボブBもMIT出身のエンジニアというキャリアをなげうち、クラウス・ネモのために最先端のサウンドを作ろうとする。美貌を誇るジェニファーも、その超絶的にグラマラスなボディの裏側に激しい憤りを秘めながら、クラウス・ネモのために肌をさらして体を開く。

 そしてシュウ・イーノ。冴えないパンクシンガーの過去を棄て、ネモたちの仲間となって開けた未来に襲いかかった恐怖を、迷いながらも噛みしめひとつの未来を選び取る。完全演技者としての未来。永劫に続くトータル・パフォーマーとしての存在。それは、常識の範囲を超えた人道にもとる未来と言って言えなくもない。

 けれども、一度得た快楽の頂点に立ち続ける困難さを知っての振る舞いだと見れば、シュウ・イーノがその未来を選んだ勇気を、その意志を讃えたい気持ちも一方に浮かぶ。最愛の存在を捨て、最大の存在たらんと欲して生きる路。決して後戻りできず、かといって幸福が舞っているとは限らない路。選ぶ勇気の大きさは、並大抵のものではない。

 たった1度の人生をどう選ぶのか。たった1度しかない人生ならばどのように作り上げるのか。その意味をクラウス・ネモの生き様が問い、シュウ・イーノの生き方が示す。激しさとは無縁ながらも強烈な印象を後の映画監督に、そして小説家にクラウス・ノミの生き様が残したように、クラウス・ノミの高邁にして超然とした生き様が、読む人たちにいったい何を残すのか。

 答えは20年後に出るだろう。


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