海帰線

 紅白歌合戦が終わった大晦日から元日にかけての明け方には必ず近所の神社へと初詣に行っていた。2月には豆を撒き5月には鯉のぼりを飾り9月にはススキを飾って団子を食べた。家から葬式を出したことのない核家族は盆に彼岸の墓参りこそしないが、祖父母を失った父は写真を飾り母は実家の仏壇へと参っていた。

 それがどうだろう。紅白が終わってもそのまま深夜の番組を楽しみ元日のうちに初詣に行けば早い方。家を出てそれでも年末には帰省していたものが今では正月に帰ることすら億劫に思っている。豆まきも節句の祝いも中秋の名月もすべてが歳時記の記述に過ぎなく思えている。未だ健在の父母が没して果たして法事を営む心が浮かんで来るのか、今はそれすらも迷いなくしては考えられない。

 多分意味があったのだろう。古(いにしえ)より伝わる因習を守り、伝える意味がきっと存在していたのだろう。それは単に精神的な支えでしかなく、無くしても文明化された社会を生きて行く上で全くの影響はないのかもしれない。むしろ時代に合わなくなった因習もあるだろう。だが1つ支えが外れた精神は、やがて文明社会を生きて行く上ですら必要な支え、それはモラルとも道義とも規律とも呼ばれる、ある種の合意事項すら失って崩壊から破滅への道を歩ませかねない。

 壊すべきは壊す。けれども守るべきは守る。そんな当たり前のようでいて、けれどもなかなかに実行する上で困難を伴う真理について、ある海辺の街を舞台に起こった事件を描いた、今敏の漫画作品「海帰線」(美術出版社、1200円)が、決して解答ではないけれど、そこへと至る道筋を指し示してくれている。

 美しい海を前に持つ町。漁港があって漁師たちも大勢おり、砂浜の海岸もあって夏には海水浴客で賑わう海に囲まれた日本にはさして珍しくないその町に、神社の神主が代々語り伝える話があった。本殿からそれた祠(ほこら)の中にある水槽の中に、丸く手に乗るほどの玉が浸され祭られていた。主人公の少年は、その水を毎日取り替えながら、海に玉を還す日を間もなく迎えようとしていた。

 だが、この漫画が描かれた1990年という年を記憶から探れば思い至るように、80年代後半を席巻したバブルが崩壊の1歩手前のもっとも輝きを増していた時期に相応しく、その町にもリゾート化をもくろむ人々による開発の波が押し寄せていた。決して富み潤っている訳ではない町、大きな病院のないその町をおそらくは開発によって救いたいとの思いもあったのだろう、神主を務めていた少年の父は、「海人の卵」と呼ばれ伝えられたその玉を、衆目にさらして観光の目玉にしようと考えた。

 当然のことながら少年の祖父、神主の父親にあたる老人は反対した。言い伝えを守って来たからこそ、寂れもせずに町は海からの恵みをあずかり、平穏無事に続いて来たのだと老人は主張し、断固として卵を言い伝えに従い海に還そうと意気込む。60年に1度、海に卵を還すかわりい新しい卵を預かり、また60年を守っていこうと訴える。

 やがて開発が積極的に進められるようになるなかで、少年は卵が海への帰還を求めているような不思議な現象に次々と遭遇する。傷を負った手が卵を持ったとたんに直り、卵を海の社へと運んだ老人の病んだ体が何故か快方へと向かう。開発業者はその神秘に別の価値を見出し、国家的な見地に立って卵の奪取に全力を傾ける。一方で神秘の力に触れた少年は、因習に依拠する卵の価値に気付き卵を奪い返して海に返そうと走り回る。

 町の発展を願う息子の気持ちは解ると言いながらも言い伝えを守ろうとする祖父、亡くした妻への想いから因習よりも発展に希望を見出そうとした父。単純なエゴとは言い切れない、優しさ故に妥協点を見出そうと努力しながも、ゆずれない一線がお互いにあってそれがぶつかり合っている様に、現代のすべての社会に共通事の、一朝一夕には解決できない難しさを見る。

 あるいは町を揺るがした事件の後でも、なおささやかではあるけれども開発は続けられたと結ばれるエンディングに、事の難しさを十分に認識した上で、マークシートのようなマルかバツかの正解ではなく、曖昧さの中で着地点を探そうと懸命に道を探す著者の葛藤が見える。それとも絶対の善あるいは絶対の悪に徹しきれない優しさか。

 確実に大友克洋とも通じるタッチを持つ絵ながら、描かれる自然とそこに暮らす人々の暖かみのある描写は、著者独特のものだろう。大活躍はしないまでも画面に抜けた明るさを醸し出してくれる犬の描写にも、徹底したトーンで全編を埋め尽くしていた印象のある大友とは違う明るさが滲む。それでいてスペクタクルな場面の圧倒的な迫力は”親譲り”。それが好きならば読んで決して損はない。

 バブルが終わりどこかの国の文化大革命の如き因習を否定し文明化に走る浅ましき疾走は終わりを告げた。が今再びその動きが息を吹き返さないとも限らない。人間は一度見た輝きを絶対に忘れることはできない。だからこそ今、本書は読まれねばならない。読んで知らなければならない。破壊すべきものは破壊し、けれども守るべきものは守るのだと。

 たぶん豆はまかないし菖蒲湯にもつからず部屋に注連縄も飾らないだろうが、それでも初詣には行ってみようかと思う。それで何が変わるとも言えないが、これだけ短期間で大激変した日本だ。もう何も変わらなくたっていいじゃないか。


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