海馬亭

 誰ひとり、知る人のいない街に来て、暮らし始めたアパートの、隣も上も誰が住んでいるのか知らないまま、20年以上が過ぎた。それで困ったことはなく、普通に静かに暮らしてこられたけれど、そんな静かさとちょっと違う20余年が、もしかしたらあったかもしれないと、そう思うことがある。

 それは見知らぬ誰かとの、素晴らしい出会いのようなもので、ひとりが別のひとりと繋がり、さらにまたひとりと繋がって、広がっていった世界が、暮らしを変え、生き方も変えてしまうという、そんな未来があったかもしれない、という思いだ。

 そんな思いがもしもかなっていたら、今のこの静かだけれど変わり映えのしない日常は、いったいどんなものになっていたのだろう。ちょっと想像してみたくなるけれど、なにもなかった現実というものが、今ここにこうして厳然と存在しているとき、すべてはもう遅過ぎるのだという後悔と、このままでよいのだという諦観が漂ってきて、身を縛り、心を体も固めて思考をさえぎる。

 結局のところそれは、なにもしなかった自分への言い訳であり、慰めであり、慨嘆でしかない。ほかの誰が悪いわけではなく、自ら動こうとしなかった自分、そして今もそう考えているだけで、やっぱり動こうとしない自分が悪いだけのことだ。それでももし、違う道があったとしたら、そこに導かれていたらと、そう思わせ感じさせてくれる場所が、村山早紀の「海馬亭通信」(ポプラ文庫、580円)という物語のなかに登場して、魅力的な輝きを放って誘いかける。

 人間の男性が山で遭難していたところを、女性の姿をした山の神様に助けられ、一緒に暮らすようなって生まれた少女は、10年ほど前に山から街へと降りていって、そのまま帰ってこず、母親を落胆させた父親が、実はなにか事情があって山に戻ってこられないまま、街で暮らしているのかもしれないと考えた。母親が神様たちの寄り合いで富士山に行っている間に、ひとり山を下りて街へと向かい、父親を捜そうとする。

 とはいえ、誰ひとり知らない、知るはずのない街に来て、行き場もないまま迷っていたところに、万引をして追われていた千鶴という少女と知り合い、彼女に連れられて海馬亭という建物に行く。かつてホテルだった建物で、今はアパートとして使われる海馬亭には、千鶴をはじめいろいろな人が暮らしていて、千鶴は管理人のような立場にある祖母に、由布と名乗った山の神様の娘を、海馬亭に置いてやって欲しいと頼む。

 それまで誰にも頼み事をしなった千鶴が、はじめ自分からいった願いを聞きいれ、千鶴の祖母は由布を海馬亭に受け入れる。居場所を得た千鶴は、そこから海馬亭に暮らすいろいろな人たちと知り合って、その生き方を見て影響を受け、それからいろいろな人の生き方にも影響を与えて、お互いに成長していく。

 わだかまりや、後ろ向きの気持ちに引っ張られ、ひとりでは動かなかったこと、固まってしまっていたことが、由布を受け入れ、由布が持っていた誰かの思いを見て、伝える力を借りて、前へと向かって動き出す。遠くからやってきたくまのぬいぐるみの気持ちを、由布がわかって互いに伝えたことがきっかけで、千鶴は祖母へのわだかまりを解き、異国で病床にある母親を思って寂しかった心を晴らし、母親のような医師になろうという決意を固める。

 ゲームソフトを作っていた女子大生は、プログラマーが逃げてしまって、作っていたソフトの開発が止まり、もうすべて投げ出そうとしていたところを、由布には見えていたタイルの思いが強くなって、女子大生にも伝わったことで、踏みとどまって次をめざそうという気持ちをわきたたせる。そして由布自身も、本当に願っていたことをかなえ、ずっと不安だった気持ちをさっぱりと晴らす。

 それもこれも、海馬亭という場所があって、そこに集い暮らす人たちの存在があったから起こった奇跡のようなできごと。落ち込んでいたら励まし、寂しがっていたら慰められる関係が、ただ埋めあうだけではなく、もっと大きな広がりをもって、大勢を包み込んだ。

 そんな都合の良い場所なんて、この世界にはあり得ないという人もいるけれど、でも、探せばどこかにあるかもしれない。最近流行の、シェアハウスのような場所では、若い人たちが集まって、関わりあって高めあっていたりするという。捜せばきっと見つかる。だから捜して欲しいと、今まで見つけられなかった身から、これから見つけたいと思っている人たちに願い、訴える。

 そんな世界から背を向けて、関わりを持たずに来た自業を自得と受け入れ、寂しさを補うためだけに「海馬亭通信」を読む、この身はいったいどうなのか。決していけないことではないけれど、それはやっぱり悲しすぎる。

 病床から海馬亭を見上げ、そこに暮らして、物語をつむいで世に問う作家になりたいと思いながら、かなわなかった女性は、死んで幽霊になって、海馬亭のある部屋に暮らし、夢をかなえた。楽しいことかもしれないけれど、でもやっぱりどこか寂しさが漂う。由布がくるまでは、誰とも関われなかったその立場は、由布と話せるようになったからといって、大きくは変わらない。大勢とつながりあい、かかわりあって広がっていく経験とは、やはり切り離されている。

 生きているうちにそこに行き、生きているうちにそこで関わり合い、埋めあって延ばしあっていくことが、生きているならまだできる。そう信じる気持ちが大切なのだ。まだ諦めるな。そして閉じこもるな。海馬亭を捜し、ないなら作ってそこから繋がりを、広がりを育んでいこう。


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