情緒論 セカイをそのまま見るということ

 07年の夏に瞬間的に話題になった「KY」という頭文字。ずいぶんと昔に珊瑚に刻まれ「何だ?」と問うた当人が理由を知っていたという愚挙もあったがそれではない。06年のサッカーワールドカップ独大会で、とあるフォワードが発して大流行した「QBK(急にボールが来たので)」と趣旨は同様。つまりは「KY(空気が読めない)」という日本語の文章を略したもので、その対象として安倍晋三が挙げられた。

 格差にあえぐ庶民が暮らしの改善を求めているというのに、教育だとか外交だとかに熱をあげまくっては滑りまくった挙げ句、所信表明演説翌日にスタートするはずだった国会での代表質問をすっぽかし、内閣総理大臣の職責を投げ出すという、前代未聞の事態へと至った言動が「KY」とやらの最たる例だと示されて叩かれた。

 実を言うなら天下の総理として適切な状況判断が出来なかっただけのこと。理路整然と説明できる事柄であって、「空気」などという曖昧模糊とした概念でとらえ、茶化すべきこどはない。けれども、敢えて自体を「空気が読めなかった総理の破綻」といった風に捉えることが、「空気」というものを肯定したい「空気」そのものだとも言える。具体的な説明を省いて何かを非難したい時、または肯定したい時にこの「空気」という言葉は、実に便利なものとして濫用されている。

 実体などなく、主体すらない「空気」がこれほどまでも世間の納得を得て、肥大化してしまうのか。おそらくはそこに漂う匂いへの「情動」が働いてしまうからなのだろう。論理などなく喚起される「情緒」への憧憬と言い換えても良い。ということは「情緒」とは、正確に物事を判断する上で余計なものなのか。そうでもあり、そうでもないと言える。

 そうでないと言えるのは、「情緒」によってもたらされる感情の実りの多さが現実にあるからだ。映画『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』でも良いし、映画の『機動警察パトレイバー THE MOVIE』でも良いだろう。そこに描かれた、万博であるとか東京の下町といった、失われていく昭和の面影に喚起される情動が、作品への前向きな気持ちを生じさせる。

 分かりやすく言えば懐かしさ。それを見せてくれる喜ばしさ。まさしく「情緒」以外のなにものでもない。そしてなぜ懐かしさが正義なのかを、誰も理屈では語れない。語れないけれども確固として肯定される。

 つげ義春が描く、性描写があからさまでない漫画に感じるエロスも「情緒」が根にある。美少女ゲームの「AIR」であったり、「CLANNAD」といった作品が心に響くのも、繰り返される日常から漂い、わき出る“切なさ”という「情緒」があるからだ。

 映像であれ、漫画であれゲームであれ、作品を論じる上で「情緒」を廃することは不可能だ、と切通理作は最新評論集「情緒論 セカイをそそままに見るということ」(春秋社、1700円)で語る。あげられるのは実相寺昭雄が残したピンク映画の場合もあるし、水木しげるの漫画に用いられた、とある写真家の写真の場合もある。古今の作品において評価すべき鍵となっている数々の「情緒」を語り、「情緒」の必然性を指し示す。

 もっとも、経済のような論理が何にも勝り先行する世界で「情緒」は決して強くはないし、求められるものでもない。「情緒論」でも挙げられ、著者も活動に関わっている東京・下北沢の保存運動では、巨大な道路ができて景観や、小さい商店が軒を並べて生まれる数々の文化が廃れるといった主張があげられる。

 だがしかし、街の意義とはいったい何なのか。誰にとっての意義なのか。日本にとってか。下北沢の住民にとってか。経済効率や文化的な意義を突き詰めればあるいは、論理的に保存の必要性をはじき出せるかもしれないが、現行の「それが誰にとってもハッピー」だという「情緒」に根ざした主張では、資本の力で押してくる勢力になかなか太刀打ちできない。

 誰もが便利になるだろう、安全になるだろうといったこれも表面的には「情緒」に働きかける論理が付いてくるから厄介さはさらに増す。反権力などという「情緒」が過去に敗北を重ねて来た経緯を振り返れば、もはや「情緒」では太刀打ちできないと感じていて、けれどもそれを続けることで得られる満足感という「情緒」にすがっているのだとしたら、なんとも空虚な話だ。

 どちらの「情緒」がより「情緒」に働きかけるのか。答えはなかなかに出しづらいけれどもひとつ、今後もとどまることを知らず出てくるだろう威圧的で官能的な「情緒」に対し、立ち向かうための「情緒」を育む必要性だけは見えてきた。

 教育なのか、倫理なのか宗教なのか空気なのかは分からない。ただ、無為に放っておいたら「国家の品格」なる「情緒」、「愛国心」なる「情緒」が人々の「情緒」を誘い、束ねてすべてを覆い尽くすだろう。そうなってからではどんな論理も「情緒」もかなわない。左翼的言説の硬直ぶりをぬってわいてきた、家族や国といった「情緒」になびいて右向け右となった90年代後半以降の状況を、覆せずにいる今を見ればそれは確実だ。

 脇へと追いやられがちだった「情緒」を闇から引きずり出して、これを主軸に語った画期的な作品論として読むも良し。ただ可能ならば「情緒」を決してあなどらず、そして「情緒」を巧みに扱いセカイを真っ当さに満たすための方法というものを、「情緒論」から学べたら幸いだ。


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