風の十二方位

 食べなきゃ生き物は死んでしまうけど食べれば何かを殺してしまう。生きることって何と罪深いんだろう、そう悩んだりする人が世の中にはいたりするけれど、この世界に生命が生まれて何万年? 何億年? とてつも長い時間繰り返されてきた”弱肉強食”の摂理を、悩んだところで誰かが変えられるものではない。

 だいたいが他の動物も植物も、生きるために食べるために奪っていることをカケラも悩んでなんかいない。当然とすら思っていない。ごくごく普通にそうしている訳で、悩む人間の方が例外も例外、すべての生き物から見ればこれほど奇妙な存在はない。それでいて食物連鎖の頂点に立っている。悩まない動物や植物だってこれには腹を立てているかもしれない。

 どうして人間だけが悩んだりするのか。摂理を罪と思って悔いたりするのか。もしかするとそれは、人間という生き物に課せられた罰のようなのものなかもしれない。ともすれば欲望に走り、奪い尽くし食べ尽くし殺し尽くしてしまう人間たち。他の生き物たちが感じ取り、世界を滅ぼさないための規範とする自然の摂理を、摂理として感じられない身として生まれてしまった人間に、罰として知恵が与えられ、悩み苦しむことをを求められたのかもしれない。

 そんな人間たちの悩み苦しむ様は、同じ人間たちによって過去から語りつがれて来た。絵画に、思想書に、宗教の経典に描かれ書き記されては横暴で手前勝手で、摂理を壊し自然を滅ぼす、神をも恐れぬ所業に走りがちな人間たちを抑えて来た。ここに登場した海野螢の漫画作品「風の十二方位」(フォックス出版、952円)にもまた、摂理に悩む者たちの姿が描かれ、生きることの意味を人に突きつける。

 人の奇妙な失踪事件が続いていた街。フータという少年が歩いていると、神社の境内で少女が男と絡み合ってる場面に行き当たる。興味を引かれて影から観察していたフータの目の前で、少女相手にフィニッシュした男が、その瞬間に消えてしまった。何が起こったのか驚き慌てているフータに近づいてきた少女は、パスカルと名乗り自分は吸血鬼で、他人のDNAを吸収(だいたいの場合は精液になるけど)することで生きているんだと説明する。

 これがきっかけで知り合いになったフータとパスカルは、惹かれ合いながらもDNAを交換する、つまりは性向して射精してしまってはおしまいだということで、一線は越えない付き合いを続けていた。それどころかフータの嫌がることはしたくないと、パスカルは他の人たちを相手にしていたDNAの”食事”すら止めてしまう。

 当然ながら起こる体調の悪化。加えてどこからともなく現れたパスカルの妹という少女が、人間を吸収するのは自分にとってのアイデンティティーなんだと言ってはばからず、フータの担任の女教師をはじめ人を次々と”吸って”しまい、遂にはフータの友人だった少年までも自分の中へと吸い込んでしまう。

 それが生きるためなら他人を奪っても良いのか。それとも多勢のためには1人が犠牲になるのもやむを得ないことなのか。強国の横暴さにすべてが蹂躙されようとしている昨今の風潮とも重なる、大きくて重たい命題が打ち出されて、生きることの罪深さを話から思い知らされる。

 パスカルたちに”吸われた”人が決して永遠に消えてしまう訳ではなく、別の場所へと行っただけなのかもしれないという提示は、罪をぬぐう横暴さの価値もあるんだということを伺わせてくれるけど、これは連環から外れた生き物であるパスカルたち吸血鬼に、造物主たちが摂理として与えたもの。人はむしろ、そうであっても自制してみせたパスカルの姿にこそ我が身の横暴さを省みて、悩み苦しみ続けるべきなのだろう。

 ジャンルで言うならエロ漫画であり、それも薄い胸と童顔の少女が多く登場するロリ系のエロ漫画ではあるけれど、絵の巧さに話の奥深さがジャンルに対して与えられがちな蔑視を越えて、多くの人に感慨を与えそう。逆に絵の方に多大な興味がある人でも、可愛い顔のパスカルや妹ミリの媚態で楽しんだその向こう側に、何かを感じることができるだろう。

 タイトルに聞き覚えがあるならそれはそのとおりで、アーシュラ・K・ル・グィンの短編集「風の十二方位」(ハヤカワSF文庫、800円)から取ったもの。なおかつ所収の「オメラスから歩み去る人々」とは、作者的には裏表の関係を持つ設定だとか。言われればなるほと通じる所もあったりするけれど、その解釈が打倒かどうかは、双方を読んだ人がそれぞれに判断して欲しい。知恵には悩む以外の使い方もあるのだから。


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