JUNTARO
蠢太郎

 語られている歴史はひとつ。けれどもそれが本当なのか違うのか、分からないことも少なくない。忘れられた史実もあれば、隠された史実もある。それらが白日のもとに晒された時、起こる驚きの声の大きいだろうことは、想像に難くない。

 もしもそれが史実だったら。「六三四の剣」に「龍−RON−」に「JIN−仁−」と、傑作漫画を次々に発表している村上もとかの最新刊「蠢太郎 JUNTARO」(小学館、552円)を読んだとき、誰もが驚きの声をあげるだろう。身に恐ろしさが混じった震撼をもたらす事柄が、そこに描かれているからだ。

 山野を彷徨う娘と母。そう見えて実は息子と父親という女形の歌舞伎役者の旅程から始まる漫画は、かつて江戸歌舞伎で人気女形だった中村鶴吉という父親と、まだ春と名乗っていた息子の芸の良さ、器量の良さで当座の旅費は得ていたものの、何かに追われる身らしく一所には落ち着けず、隠れるように渡り歩いていた。

 ある夜は、雪の中で女人禁制の寺に男子だからと言って入り、父親は僧侶に身を捧げ、息子のためにと寝床と食事を得て一夜の宿を得た。そこに飛び込んできた官憲たちから、親子はかろうじて逃げ京都の町へと入る。どうして一介の女形が官憲にしつこく追われるのか。その理由が後に明かされ、震撼への土台となる。

 時に世は明治維新直後で、天皇が京都御所から江戸城の御所へと移り、京都の街はどこか沈んだ空気の中にいた。本当なら追い返されかねないところを、芸の実力もあって鶴吉は、芝居小屋の片隅に仕事を得る。やがて江戸歌舞伎でならした芸を認められ、舞台に立つようにもなっていく。

 息子の方は、春から蠢太郎へと名を替えて、歌舞伎や舞の修行を始める。その見目の美しさをからわかれ、虐められもするけれど、根っからの気性の強さで逆襲し、やがて仲間たちに認められていく。

 芸の腕も上がって舞台に上がるようになり、そのころには鶴吉への追っ手も京都の町を仕切るヤクザの大立て者の庇護があって、鶴吉や蠢太郎に近寄ってくることはなかった。加えてもうひとりの存在が、鶴吉と蠢太郎の立場を京都ではとてつもなく強固なものにしていた。

 その存在が果たして歴史の上に実在したのか。それとも村上もとかの想像なのか。監修にあたった志波秀宇の強い思いが繁栄されたものなのか。その存在がそこにいる以前に行われたらしい陰惨な出来事もあわせて記されていて、これが想像だとしてもあまりにも凄まじく、そして蔑ろにはできない興味を歴史へとかりたてる。

 何しろ筆者は数々の漫画賞を受賞し、今や日本を代表する漫画家の一人となった村上もとかだ。たとえ監修者の思いを受けたものだったとしても、実際に漫画として描いた漫画家に、さまざまな声が及ばないということはない。その覚悟を持って描いた以上、描かれたことになにがしかの意味が、あるいは意義があるのだろう。

 ただし、歴史の裏に隠されていそうな事柄であっても、そこに登場してくる“役者”たちに、卑怯者は誰もいないところが、さすがは国家百年を考え、維新という大事業に挑み、あるいは妨げようとした者たちだけのことはある。京都で蠢太郎という名を得た息子が見た存在も、そして連れられて江戸で出合った敵方の筆頭も、その上に君臨する存在も、すべてがこの国のために心を砕き、時には鬼ともなってことに挑んだ。

 そうした激動の歴史の狭間に囚われ、運命を翻弄される形となった蠢太郎には悲惨なことではあるものの、そんな蠢太郎も恨み言を心に燃やしつつ、反発したり拗ねたりしないで受け入れる。もとよりの美しさと、天性の才能から出てくる芸の見事さがそこに加わって、蠢太郎は役者として高い評判を得て、完全に自由とは言えないまでも、暗い日々を脱して自分自身の居場所というものを作っていく。

 ひとりの女形の凄絶な生き方と読んで、存分に楽しめる漫画であることは確か。身は女性の格好をしながらも、中身は男として出会う女性に懸想し、体も奪い求めることもある。それでいて、やはり女形であり芸人である心が、厳しい場所であっても舞台へと身を赴かせ、誰が相手でも演技を見せ、そしてその心情を引きずったまま、仇ともいえる男のために身を投げ出して腕を奪われる。ただただ凄まじい。

 一方で、明治という世ができて進んでいった裏側を、想像する楽しみもある。あの存在は本当に実在していたのか。その過程で起こったことはどうだったのか。伊藤博文に貞奴といった歴史上の人物たちの言動も、歴史に照らしてどこまであり得るのかを探る楽しみがある。

 とにかく驚きの歴史を記した時代漫画。そして感動と感涙をもたらす芸能漫画。たとえそうとしか生きられなくても、そこでどれだけ目一杯に生きるのかを見せてくれる物語に、可能性の大きく開かれ世を、投げて諦め縮こまって生きている身を省みよ


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