ホラー・ドラコニア 少女小説集成【壱】
ジェローム神父

 異端も老いれば権威に化ける。それは決して異端の主に責任があるのではなく、異端に惹かれ集った人たちの側にあることが多い。彼らが異端に向ける情熱と、それに反比例して向けられる好奇が彼我の間に壁を立てさせ、挙げ句に閉じこもって異端の信奉者に内向きの情熱を燃やさせる。結果、起こるのは異端の教団化であり信奉者の教徒化で、それが傍目には異端の権威化に見えてしまう。

 これは何も異端に限った話ではなく、ものごとを信じ集まる人っちがいれば必ずや起こる現象で、挙げるならオタクな世界でも割にひんぱんに生まれる状況ではある。ともあれそうなってしまう責任は、異端のあらゆる既成概念を嘲弄し、打破しては新たな価値観を示していく精神をどこかに置き忘れ、すがる相手を権威化しては自らも権威となっていきたい周囲にあることに違いはない。

 かくして異端の権威に相乗りして、権威化した自分がそのまま本来の異端だと信じて疑わなくなってしまう人たちによって、異端が本来持っていた権威を貫く可能性の矢は折られ、刃はさび付かせられてしまう。挙げ句に異端は神棚へと祭り上げられ奥へとしまい込まれ、やがて忘れ去られてしまうのだ。

 平凡社から刊行された澁澤龍彦翻訳によるマルキ・ド・サドの「ジェローム神父」(1800円)に挟み込まれている、高丘卓の編集後記「高丘親分出帆顛末記」を読むにつけ、異端の王として昭和の日本を時にシニカルに、時にアイロニカルに評しつつ当人ははるかな高みを超然と、歩み進んでいた澁澤龍彦が平成の世になって権威と祭り上げられ、逆に異端を排撃する側に置かれてしまっている皮肉に気付かされ、愕然とさせられる。

 「ホラー・ドラコニア 少女小説集成」と銘打たれたこの叢書では、表紙に現代美術の新鋭が招かれ作品が使用されることになっているらしい。栄えある第1巻に起用されたのが、ビル街を仰向けになって犯される「巨大フジ隊員vsキングギドラ」や、セーラー服で刀をあやつり腹を割っては内蔵を飛び散らせる「切腹女子高生」といった、美少女を陵辱したり虐待しているように写る作品で世を騒がせ続けているる会田誠という現代アーティストだ。

 ところがこの会田誠を表紙とイラストに起用しようとしたところ、長年の澁澤ファンらしい人物より「強烈な妨害を受けた」らしい。曰く「『こんな下品な気持ち悪い絵を崇高な澁澤作品に用いるのはけしからん』というのである」。怒り心頭に達したその「年増」は、抗議を編集者ではなく編集局次長と澁澤龍彦夫人の龍子へと直接行ったそうで、あまつさえ「『私は京都のパトロンを手を切って東京に戻る。ついてはスタッフを入れかえ、この企画を自分にまかせないか』と胡乱な誘いを編集局長にもちかけ」たらしい。

 ただの熱狂的なファンなの、かそれとも編集局次長や龍子夫人と面識のある名の通った人なのかは分からない。ただ言えるのは、少女をひどい目に合わせる、それも昨今のエロ小説がおとなしく思えるくらいに悲惨な目に会わせては、反省も悔恨もせずむしろ「堕落や不道徳に身をまかせることには、いささかの不都合のないのだ」と断じ、「単に道楽者、酒飲み、盗人、不信心家、等々であるだけではおもしろくない。すべてを試みること、すべてに耽溺することが必要だと思う」と開き直って語る男が主人公の、サド侯爵の「ジェローム神父」が、会田誠の絵に比べて上品だ下品だと比較できるものではないということだ。

 むしろ言うなら高丘が美術史家の山下裕二に送った手紙の文面のように、「『ジェローム神父』のために描き下ろした作品のように思われるほど、ジャスト・フィットした挿画」になっているとさえ思える。山下はこれには異論を呈して「表現の位相が完全にずれている」と書いていているが、それでも「逆に、澁澤テイストを奉じる人たちが、会田の、このあまりに馬鹿馬鹿しい『戯れ絵』を知って、似非シュルレアリスムの薄っぺらさから脱却してくれるきっかけになれば」と、会田・澁澤・サドの組み合わせが放つ逆洗脳的効果に強い期待を寄せている。

 会田の絵を知りなおかつ澁澤の著作に翻訳を読む人間が世にどれくらいの比率で存在するかは分からない。それでも見ればかくも戦闘的といえる出版の試みに、惹かれ賛意を示したくなるのが会田の、あるいは澁澤の異端に感じ入った者たちの至極真っ当な反応だ。「いかにも、という感じの『シュルレアリスムもどき』の挿画が施されていた方が、澁澤フリークは納得したかもしれない」と山下は書くがそんなことはない。今さら金子國義の絵なり四谷シモンの人形なりが付けられても、そこに新しさも異端さも覚えなかったのではないだろうか。

 澁澤が没して20余年が経ち、権威として祭り上げら周囲に自らを権威と僭称する輩が蔓延り跳梁し始めていた異端の王・澁澤龍彦。その彼を、会田誠を絵に起用した「ジェローム神父」は神棚から引きずり出しては新たな読者に見てもらい、読んでもらうことに成功した。もはや異端の神でも王でもなく、異端の語り部として彼を窓口に数多ある異端へと、たどり行ける立場へと澁澤を戻すきっかけになっただろう。

 会田誠を下品と抗議して来た「年増」がそんな風潮を、地団駄踏んで悔しがる様を想像するのは愉快で痛快。次巻は澁澤の著作「菊燈台」に会田と並んで世界が期待する日本の現代アーティスト、山口晃が挿画を付けることになっていて、これまた異端の信奉者から激しい反感を招く一方で、新たな異端の賛同者を育て招き入れる役割を果たしそう。期待するしかなさそうだ。


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