ヤン・ファーブル
展覧会名:ヤン・ファーブル 骸骨+皮膚
会場:佐谷画廊
日時:1996年11月22日
入場料:無料円



 「シートン動物記」とか「牧野富太郎植物記」とかは読んでいるのに、「ファーブル昆虫記」を読んでいないのは、家に「ファーブル昆虫記」がなかったからで、昆虫が嫌いだったからではありません。今だって足下を、黒光りした立派な体格の虫が走り去ってくのを見守っていたくらいですから、もしかしたら相当の虫好きなのかもしれません。

 けれども1匹2匹の虫でなく、例えば100匹、1000匹もの虫が集まって、わしゃわしゃと足をふるわせ羽を閉じたり開いている様を思い浮かべると、相当に気味の悪いものがあります。手で払っても足で踏みつぶしても、生き残った虫が襲いかかってくるような感覚にとらわれて、自分でコントロールできない存在としての大量の虫に、恐れを感じるからだと思います。

 奇しくも「ファーブル」という名前を持ったアーティスト、ヤン・ファーブルの展覧会「骸骨+皮膚」には、虫に襲われ、全身を虫に覆い尽くされた感覚になれるような「衣裳」が展示されていました。おそらく西洋甲冑の形を模したものでしょうか、足の部分が3本、胸当てが2本、手の部分が3本あって、それぞれに大量の虫、あるものは緑色に輝く玉虫や黄金虫ばかりが、別のものにはかぶと虫やくわがた虫のような茶色や黒色の虫ばかりが、びっしりと張り付けられています。

 遠目には緑色に輝く甲冑、あるいは茶色のがっしりとした甲冑のように見えますが、近寄るとその表面は、虫達の背中の丸みによって凹凸になっています。すべて死んでいるので、足こそわしゃわしゃとは動かしませんが、代わりに虫が朽ちていく腐臭が漂い、見る者に嫌悪感を引き起こさせます。

 甲冑の一部を並べた作品とは別に、昆虫を張り付けて形作った馬のような、あるいは牛のような奇妙な形をした頭部を持った、甲冑の胸像も展示されています。胴体部分の鈍く光るシルバーと、頭部の毒々しく輝く緑色の対比が、不安定な調和を醸し出しています。

 写真家の今道子さんは、ヒカリモノの魚を使って帽子とか服とかを作って、それを写真に撮っていますが、実物の魚の帽子や魚の服を展示することはありません。魚はあくまでも素材であって、帽子や服といったありきたりの存在が、魚の皮膚が放つ色合いなどによって、どう変化しどう見えるようになるのかを、試している節が感じられます。

 けれどもヤン・ファーブルの作品の場合、生命が自ら作り出した外骨格にあこがれて、人間は、おのが弱さを隠す人工の外骨格である甲冑を、作り出したのだというメッセージを、あくまで個人的ですが、彼の作品から感じます。あるいは作者の昆虫のような皮膚の強さへのあこがれが、代替物としての甲冑へのこだわりを経て、実際の昆虫を使った甲冑へとたどりついたのだと言うこともできます。

 好きかといわれれば嫌いな芸術です。ですが奇妙な共感を覚える芸術です。鳥の持つ翼へのあこがれ、魚の持つエラへのあこがれ、馬の持つ足へのあこがれ等々。つまるところ絶対的な存在として生物ピラミッドの頂点に位置していると自負しながらも、人間は他の生物が持つ人間をはるかにしのぐ力に、心の奥底では恐れを抱き、あるいは惹かれているのです。

 曾祖父にかのアンリ・ファーブルを持った宿命から、ヤン・ファーブルは昆虫へのこだわりが発露しました(戦略なのかもしれませんが)。今はまだ森にいる甲虫が中心ですが、あるいは将来、家にいるキチン質の虫を偏愛するようになった時、そこにはどんな芸術が出現するのでしょうか。考えるだに本当、虫酸が全身を走ります。
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