イツロベ

 世紀末だというのに、世の中が少しも”暗黒”に思えないのは、同時代にあってさまざまな面白いこと、楽しいことをリアルタイム見聞きできるからだろう。テレビを着ければアニメが毎日のように放映され、ショップには新作ゲームが山と積まれ本屋には漫画の雑誌と単行本がこれも山のよう。趣味が偏ってるから補足すれば、ファッションだって音楽だってスポーツだって世間には人を楽しませてくれることがいくらもある。

 これが例えば10年後、それとも100年後に今を振り返って見た時に、実は世紀末に相応しい”暗黒”の世の中だったということに、初めて気が付くのかもしれない。例えば昭和初期の、日本が破滅への道をまっしぐらに進んでいた時ですら、人は今が”暗黒”の世の中だと気が付いていなかったように、事が起こり時を隔てて人心が一新された後にようやく、時代の持っていた意味を認識することができるものだ。

 ならば今のこの世紀末の世の中は、本当に”暗黒”なのだろうか。先の言辞に照らし合わせて解らないというのが正直偽らざる答えだが、それでもぼんやりとは、後に今の世の中を世紀末という単語に相応しい時代の大いなる節目だったと意味づける要素が、そこかしこに感じられる。例えば日本という国への際限なき依拠を求めようとするさまざまな言説の横行がある。人々の自らを律する心の変化がある。道徳と尊ばれた行為は失われ、ポジティブと喜ばれた自己啓発は廃れ、ただ快楽をのみ追い求めて止まない人々ばかりが目に留まる。

 そして子供たち。その変化は10年歳を違えるともはや同じ社会の成員なのかすら疑わしく思えるほどに大きなものとなっている。長じた者が賢しらに諭そうとしているのではない。ただ理解できないことが多すぎるのだ。道ばたに物を平気で捨てる。禁煙を呼びかけるスピーカーの下で煙草を吸う、そして吸いがらを足でにじる。長幼の序をわきまえない、といよりその意味を認知しない。ナイフで刺し、拳で殴れば人が死ぬということを認識してない……。

 「何だかはよく分からない……。だが、とんでもないことがあちらこちらで一斉に起こりかけているのが分かる……。」−藤木稟が語り下ろした「イツロベ」(講談社、1800円)の物語のほぼラスト、427ページに登場する榎本という男の言葉はまさに、そんなぼんやりとした不安ならぬ変化を指し示している。変化とは何か。子供たちに起こっていることは何なのか。その答えは実は「イツロベ」というタイトルそのものに秘められている、らしいがまずは物語の流れを追って、変化の兆しを探してみたい。

 冒頭で描かれるのは榎本の一人息子の失踪という事件。不良ではなく優等生でもない普通の少年だった13歳の弘幸が、ある日突然姿を消した。手がかりはほとんどなく、あるのは弘幸がネットで勉強をするからと言って買ってもらったパソコンで、「ゴスペル」と呼ばれるネットワークゲームに熱心だったことくらい。「パソコン画面が新幹線の車窓の景色のように高速で変化し、その合間に起こる眩しい光の点滅の中に、ランダムな言葉の羅列のような文章が表示されるだけだ。そして、きままに思ったことを答える」(10ページ)。それだけのゲームに弘幸も含め大勢の子供たちがハマっていた。

 息子はどこへ行ったのか。その謎に近づこうと職場の病院で「ゴスペル」を遊んでい榎本に、同僚でしばらく前にアフリカでボランティアの医師をしていた間野という医師が寄って来て、自分がアフリカで経験した奇妙な出来事について長い話を始めた。以後、ラスト近くまで「イツロベ」のほとんどがこの間野の話で占められる。

 ブンジファと言う独立して間もないアフリカの小国にある小さな村に着任した間野は、医師として医員を構えて周囲の住民たちの治療を始める。そんな間野を突然仮面の男が訪ねて来た。ラウツカ族と呼ばれ周囲の人々と交流しない、「精霊に類する者達」「人間の長兄」と畏怖される古い部族の男・ターパートゥニは黄色い仮面を付け日本語を話して間野に話しかけて来た。

 その日から始まったラウツカ族との交流の中で、間野はラウツカ族に伝わる女神ノネが最初に蛭子を産んだ神話を聞き、ル・ルウと呼ばれる禁断の森の中を徘徊する謎の生物に邂逅し、病で瀕死の状態となりんがら一命を取り留め東京へと戻る。そして一人娘を失い妻と不仲になった間野が、不倫した妻と不倫相手の諍いを目撃した場面へと進み、そんな暮らしの中で自分が、黒い髪の女の姿を頻繁に目撃していた事を榎本に告げ、間野は榎本の職場から出て行く。

 間野がひんぱんに目撃した謎の女の正体は。弘幸たちがのめり込んでいる「ゴスペル」なるゲームが意味するものは。間野の現実と幻想とが次第に交錯し、アフリカでの暮らしですら果たして現実だったのかが疑わしく思えて来る描写のなかで、起こりかけている「とんでもないこと」がぼんやりとだが示唆される。

 間野がブンジファで見た23もの階層に分かれてそれぞれが己の役割をのみ果たすために存在する白蟻。一人ひとりは没個性でもネットワークを介してつながれば天才の脳髄ですら及ばない知性を発揮する可能性。決して姿を見せずAIではないかとの疑いも持たれている天才学者。折しも子供たちに大流行している奇妙なネットワークゲーム。そして「イツロベ」というタイトル。それの示唆するものは……と、これは読んだ人々がそれぞれに考える事だろう。

 藤木稟が「イツロベ」で示唆した変化の兆しも、単なるフィクションととらえれば、今を”暗黒”と実証する答えはそこには見つからない。だが、間野がブンジファで出会った白蟻を研究するゲイの学者・佐藤が去り際に話した「僕のようなゲイは生命として最先端で過敏なのよ。炭鉱のカナリアのようなもんね」(130ページ)という言葉を、そのまま作家の役割になぞらえて、ほのかな兆しを読みとりかすかかな風をも感じる鋭敏さが、今、確実に何かが起こっていることを感じて「イツロベ」を書かせたのだとすれば、来るべき新世紀は確かに大人たちにとっては”暗黒”の時代になるようだ。子供たちにとって”至福”となるかを決めるには、100年の時が必要だが。


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