いなくなれ、群青

 レーベルとして独立している訳ではないのだから、新潮文庫nexはあくまで新潮文庫の中に混じった作品であって、ライトノベルのレーベルと断じることには難しさがあるけれど、そこに居並ぶ作家であったり、イラスト調の表紙に少年少女がメーンとして活躍するストーリーに、ライトノベルとしての雰囲気を見ることは不可能ではない。

 だから、「サクラダリセット」シリーズでライトノベルの分野にしっかりと居場所を持ち、少年少女が直面している問題をSFであったりミステリーといった形態で出している河野裕が、新潮文庫nexから出した「いなくなれ、群青」(新潮社、590円)を、ライトノベルと言いたくなる気持ちは十分に分かる。けれども。

 読み終えて浮かぶのは、幻想的で刹那的でもあって、虚しくて切なくもある観念的な文学といった印象。例えるなら村上春樹が描く、どこかファンタスティックでミステリアスで、暗喩を含んで示唆的な物語といったところだろうか。これをードカバーで出して純文学作家として推していけば、藤野千夜や梨木香歩のようなポジションに居場所を得られそうな気がしないでもない。

 ライトノベル的な新ジャンルと思われてしまっている新潮文庫nexから出てしまったことが、逆に読み手の範囲を狭めてしまう心配も浮かぶけれど、本当に凄い作品はカテゴリーの壁など無視してどんどんと広がっていくもの。この「いなくなれ、群青」もそうやって、大勢が気にして手に取り、読んでいろいろと感じる作品になっていくのかもしれない。

 物語。七草とう名の高校生の少年が暮らしているのは、「階段島」と呼ばれる孤島で、そこには集落があって人もいて、学校もあって普通に生活が営まれているように見えるけれど、実態はまるで違ったものだった。そこの住人は誰もがある時とつぜんにそこに来ていたから。少しばかりの記憶の欠落はあっても、前の生活はちゃんと覚えていて、どうして自分がその島に来てしまっのかだけが分からない。

 だから誰もが最初は戸惑うけれど、そこで最初に出会った住人が、どういう状況なのかを説明してあげることになる。新しく来た人は、自分が何かを忘れてしまっていて、それが何か分かったと報告に行けば島から出られるらしいとを聞く。だって島なら普通に船に乗っていけば出られるでしょう? そう誰もが最初は思けれど、港に荷物を届ける船には誰も乗せてもらえないし、ボートでこぎ出してもどこにもたどり着けない。

 ネットはつながっていてサイトは見られるし、通販だって利用できてそれを使ってタクシーだって買えるけれど、メールを出したりボードに書き込んで助けを求めることはできない。だから嫌でもその島にいなくてはならなくなった七草は、学生ということで寮を世話してもらい、島にある学校に通い始めた、そんな日々に慣れたころ、新たな訪問者が島に現れる。

 それは七草とはかつて同級生だった真辺由宇という少女で、七草のこともしっかりと覚えていて、ここはどこかと訪ねてくる。それだけに止まらず、積極的に島から出ようと言い出して周囲を引っ張り回す。もとより強引な性格で、納得のいかないことが大嫌いなタイプで、学校で嫌なことがあって帰ってしまったクラスメートの少女を、家まで呼びに行って、出てこないとガラスを割って鍵をこじあけてでも会おうとしたほど。乱暴でも、それが正しいならやり抜くという信念が、年月を経て再会した島でも変わらず続いていた。

 島には「階段島」と呼ばれる由来になった階段があって、その上には魔女が住んでいると言われている。島のことはだいたい魔女が決めていて、時には島民の願いをかなえることもあって、タクシー運転手になりたいという人にはタクシーをプレゼントしたりもするし、仕事を斡旋したりもする。でもその姿を見た人は誰もいない。ただ電話で、あるいは手紙で連絡がくるくらい。だから由宇は魔女がすべての鍵を握っていると感じて会いに行こうとするけれど、そうはうまくいかない。

 それでも探る島の秘密と脱出の仕方。新たに男の子も迷い込んできたりするエピソードも経た先で、七草と由宇は「階段島」の秘密を知り、そして自分たちがどうしてそこに捨てられてしまったのかを知る。

 どうしてそういう世界が存在するのか? といったあたりに科学的で合理的な説明はなく、幻想的で思弁的だったりする。あるいは、人の心の奥にはそうした、鎮めたり切り離したりした想いなり感情なりが吹き黙っている場所があって、それらが重なり合って生まれた世界が「階段島」を形成していたりするのかもしれない。一種の集合的無意識といった感じに。

 もっとも、そうした理屈を探すよりも、むしろ物語を通して、人がいろいろと捨てながら成長していく姿を一方で是としつつ、捨てられてしまったものの中にある、愛おしくて切ないものたちについていま一度、思いをは馳せさせようとする作品なんだと思う方が、より理解しやすいかもしれない。

 気になるのは、そんな「階段島」の“正体”に気づいて七草と由宇が納得できるのか、というところ。納得できないからこそ捨てられてしまったのか。そして残されたある意味で本当の自分たちはどんな毎日を送っているのか。それは素晴らしい日々なのか。善も悪も楽しいことも辛いことも、すべてを併せ持ってこその人間という摂理を、揺るがしかねない状況をいったい誰が作り出したのか。それだけは知りたい気がする。

 テクニカルなSFだった「サクラダリセット」のシリーズでも、童子に若者たちの複雑な心情を描いていた河野裕。よりシンプルで観念的にした設定の上で繰り広げられる、若者に限らず人の心の機微を描いた「いなくなれ、群青」で、どこまでその名を広めるか。そこも気にしてこれからを見ていきたい。


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