いないときに来る列車

 ほのぼのとしてちょっぴりエッチで、ふんわかとしてそれでいて奥深い。そんな要素を持った漫画を、ずっと描き続けてきた粟岳高弘の新刊「いないときに来る列車」(駒草出版925円)もやはり、ほのぼのとしてやっぱりエッチで、ふわふわとしていながらもドキッとさせられるシリアスさがある。そして何よりSFだ。

 読むほどに迫ってくるのは、こことは違う不思議な世界で生きる人たちの、たとえ現実とは違っていても、それを日常として受け入れ、暮らしている穏やかなライフスタイル。いつか異星人と出会うこともあるだろう人類の、それでも慌てず粛々と順応しながら、未来をしっかりと生きていくだろうという姿への、想像力といったものをかき立てられる。

 収録されているのは、主に同人誌で発表された作品で、メインになるのは「斥力構体」という、テレビのアンテナみたいな形をしたものが空に浮かぶようになっていて、周辺には草原というか湿地というか原野といったものが広がった、田舎の町が舞台となったシリーズ。そこには、現実にはあり得ない不思議を受け入れる人々がいて、だらだらとした日々を送っている。

 一方で、ゲートみたいなもので繋がった先に、地球から飛ばされた人たちが四半世紀、コミュニティの中で暮らしていたことも描かれている。トンネルを抜けたそこが雪国であることに、彼方へとやって来た感慨を覚えるように、通路を抜けてつながった異世界への不安混じりの憧憬は、人間の誰もが抱いていてるものだろう。そこへと行ってみたいと思いながらも、行って帰れなかったらどうしようかと考えたりもする。

 そんな複雑な感情を、少女達が服を脱いでほとんど裸で行き来してしまう姿を見せることで瞬間押し消し、彼方への興味を募らせるところが、粟岳作品ならではの味と言えそう。もちろん、いたずらにエロティックさを見せようとしている訳ではない。

 多分ない。あるかもしれないけれどそれがメインではない。ないと思う。それが証拠に一応は、越えていかなくてはならない池があって、そして服が破れてしまうゾーンがあるからという理由があって、少女たちはスクール水着に着替えもするし、特殊な繊維で織られふんどしを着け、そして胸はガムテープみたいなもので押さえたりする。仕方がないのだ。

 そうした不思議が起こる世界があり、そうした世界をあるいは支配しているのか、遠くから眺めているだけなのか分からないけれど、異世界の存在たちには別の思惑もある、といった雰囲気が漂うワールドに、今を主体的に生きているだけでなく、何者かに生かされている人類の立場といったものが感じられ、宇宙の広がりを想像させられる。

 それが真実ではなくても、そういう真実があるかもしれない可能性。それが決して怖いものではなく、楽しいものかもしれないというビジョン。そんなものをくれる連作になっている。彼らは何がしたいんだろうか。何もしたくないんだろうか。分からないけれど、そういう宇宙に僕たちは生きているのかもしれない。

 表題作の「いないときに来る列車」は、メインとなっている「斥力構体」シリーズとは外れた単独の作品だけれど、タイトルがいかにもSF的で、読む前からいったい何が描かれているのだろうかと心躍らされる。読むと実際に未来的で、田園的で、退廃的で、そして革新的。表層に描かれた世界観の奥にある、不思議でちょっぴり不気味なシチュエーションへの思いを喚起させられる。

 遠くの方に飛ばしたドローンが集めた映像では、どうやら世界は滅び去っている。けれども列車はどこかから、そのコロニーの脇を走る線路の上を誰も起きてはいないときにやって来て、線路脇に必要な物資を落としてどこかへと去っていく。どうしてそんな列車が存在するんだろう。どこから来ているんだろう。誰が何のために物資を寄越しているんだろう。超越者の姿が脳裏に浮かぶ。

 そんな列車にくくりつけられていた手紙が、どこかで誰かが生きている可能性を示す。いないときではないときにやって来た列車をつかまえて、その誰かは書いた手紙を乗せたらしい。どうすればいないとき来る列車が、どんなタイミングで来ると予測できるのか。遠くへと目を向けたい憧憬が導き出した答えが、生きている人間ならではの探求心を裏打ちする。

 そんな不思議や謎の向こうに人類が滅びかけ、機械のサポートも留まりかけている、はるか未来の地球のビジョンが浮かんでくる。どうしてそうなったのか。これからどうなってしまうのか。物語として知りたいけれど、切り取られた断片から想像するのもまた楽しい。それがSFの醍醐味であり、「いないときに来る列車」はそれを味わわせてくれる物語だ。

 もっとSFの人に名を知られて欲しい漫画家であり、漫画作品。次はどんな不思議を、どれだけのエロティックさと共に見せてくれるだろうか。楽しみにして待ちたい。


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