払暁の特務戦隊
ワイルドバーズ

 なぜ戦うのか。その理由があの時代にはたぶんあったのだろう。最初は明確な意志として存在していた。アジアの開放。国民生活の向上。けれどもいつしか戦いそのものが目的と化して、そこに意志を合わせるようになっていった。

 作中でも「クウキ」と称され、英語では「エアー」ならぬ「ムード」と意訳されたそれに押され、気持ちを奮わされた太平洋戦争下の日本人。そのマインドを託された乙女たちの壮絶な闘いぶりが、吉岡平の「払暁の特務戦隊 ワイルドバーズ」(KKベストセラーズ、933円)には綴られている。

 1945年8月15日に玉音放送があって、ポツダム宣言を受け入れ連合軍に降伏して終戦を迎えた日本。終戦前まで陸軍の特攻部隊にいた尾白鷹志は、占領に来たアメリカ軍にパイロットとしての腕と、そして小笠原諸島の地理の知識を買われて引っ張られ、妹島という島へと向かう。

 かつては野鳥の宝庫だったその島では、今も日本軍が駐屯して抵抗を続けていた。物量に勝るアメリカ軍が押せば、すぐにも陥落しそうな島だったが、尾白の助言もあって自然破壊に遠慮し、艦砲射撃は行わずまずは飛行機を飛ばして様子を見ようとした。

 ところが、そこに高射砲が飛び銃声が響いて、偵察に行ったB29が撃墜された。出撃した尾白自身も、乗っていた飛行機を腕前の良いスナイパーによって歩兵銃でねらい撃ちされて島に不時着し、島を護っていた部隊の人たちと体面して驚いた。そこにいたのは全員が少女たちの部隊だったのだ。

 物語はそこから、それぞれにそれなりの力量を持った少女たちによる戦いへと進んでいく。空戦ではアメリカ軍のパイロットたちを翻弄し、上陸してきた海兵隊員はマタギの血を引き尾白を落とした少女がスナイパーとしてねらい打つ。

 戦車を相手にしてもドイツ製の自走砲ナスホルンで待ち受け、緻密な弾道計算によって続々撃破。容易にアメリカ軍の蹂躙を許さない。弱者が知恵を働かせ、勇気をふりしぼって強者を相手に互角以上の戦いを繰り広げる様に、知恵を授けられ勇気を与えられるような気分をとりあえずは味わえる。

 もっともそこは日本を降伏させたアメリカ軍。戦力も豊富でいつかは陥落することが決まっている。だいたいが尾白の参加で終戦したことが判明した時点で、少女たちが闘う理由はなくなった。降伏する気持ちも生まれかけた。ところが空気に染まって逃れられない存在が不幸な事態をもたらし、戦闘は止まずむしろ激化してアメリカ兵が大勢死に、少女の中にも犠牲者が出る。

 いったい闘いはどこへと向かうのか? 全員玉砕という悲劇の予感が最後の最後で覆される、ひとまず安心の気持ちを抱いてページを閉じられる。それでも、激情と玉砕への空気が背を押し始まった戦いの空虚さというものに対する憤りが、読み終えても後を引く。

 最新鋭の武器を凄腕の少女たちに与えたら、強いアメリカ軍をいったいどんな闘いぶりを見せてくれるのか。そんなシミュレートをしてみせた物語としての面白さは確かにある。一方で書き手のそうした“タクラミ”の陰でアメリカ兵は山と死に、少女にも無駄で無益で無謀な戦いを強いる。シミュレートの面白さの裏側で架空とは言え人の命が蹂躙されている。

 すべてが終わった後で、少女たちは少女であるが故にヒロイン視され、歓迎を受ける場面がある。けれどもそれれにどんな栄誉があるのか。あれだけの大量の人死にを見方にも敵にも出してしまった原因の多くを持つ存在に、果たして相応しい処遇なのか。

 状況が状況だったからという言い訳も可能だろう。ただ、押し流されて始まった戦いがもたらした悲劇的な結果に対する畏れやおののき気持ちといったものが、あまりつまびらかにはされない結末に、小説としての楽しさとは別の寂しさを思わされる。

 そこはベテランだけあって作家は、少女たちを果てまでヒロインとして持ち上げることはしていない。残る後悔の念を含ませ描いているからバランスはどうにか保たれる。保たれるけれども、そうした所までを読者が汲み取るかは別の話。美少女戦士が巨大な敵を相手に奮闘したという楽しさに溺れさせるだけで、真意は伝えられずただそれを恰好良いと感じる空気だけが蔓延して、世の中から正気を奪うことになりかねない。

 果てに今度は勝てるし、勝たなくてはいけないという気分すら生まれて世を満たす。とんでもない。勝ち負けなんて考えてる時点でどうにかしてるのだということを、読んで感じることが自走砲のナスホルンと共に散ったのじこに、ちどりに、くいなといった少女たちへの手向けとなる。

 もう絶対に乙女心を空気で包ませてはいけない。その空気に火など着けさせてはならない。


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