不屈の女神
ゲッツェンディーナー

 起承転結の「結」の部分をひねり、そこから新しい「起」を導き出すことによって、約束事の多い小説の、ステレオタイプになりがちな構造に疑問を投げかけてみる。形式張った様をからかうのではない。決まり事を裏側から、あるいはナナメ上・横・下から見ることで、形式だけが重要視されるようになってしまった小説が、小説として本来持っていたはずの物語性や思想性の部分を、もう1度再認識してみようとする試みなのだと言える。

 菅浩江が95年に発表した「不屈の女神 ゲッツェンディーナー」(角川スニーカー文庫、500円)は、魔物にさらわれ塔に閉じこめられたお姫さまのところに、勇者が救い出しに来た場面からいきなり始まっている。

 姫をさらわれ悲嘆にくれる王様と王妃、国中におふれを出して「姫を救い出してくれた勇者には姫を褒美としてとらせる」と呼びかけたところ旅の勇者が通りかかって「わたくしめにお役目と」とかなんとかいって幾星霜、魔法使いの婆さんから世界の秘密を聞き出し、吟遊詩人や僧侶や剣士を友に旅から旅の三度笠、ようやくにしてたどり着いた古城には怪物がうようよと待ちかまえ・・・といったファンタジーの「形式」はまるでない。

 あまつさえ勇者は魔物と相打ちになって斃れてしまい、あと一歩で物語の終局を迎えられると思っていた登場人物は、その手前で再び物語りの冒頭へと放り出されてしまう。「大団円」に向けてひたすら突き進んでいく、既存の「ファンタジー」の構造を土台にしたパロディーのようにも見てとれる。

 だがこれだけで終わってしまっては、ワン・アイディアの小話と変わりがない。菅浩江の真骨頂はそこから後、勇者によって救い出されることなく、ぬくぬくとした「ファンタジー」のお姫様を演じる役目を取り上げられた主人公のキシュ・リム・ミーサが、自分で思考し行動せざるを得なくなってから、存分に発揮されてくる。

 ミーサの祖先によって封じ込められたはずの魔神が復活しようとしている。だからこそ「魔封じ」の血を引く貴族(キシュ)であるミーサをさらって、邪魔する者を除こうとしたのだった。しかしミーサを助けるはずだった勇者が死んだ今、座していては死んでしまう。仕方なしにミーサは、「不屈の女神」と讃えられた勝ち気な性格を表に出して、剣を取って魔神の島から脱出を図ろうとした。

 魔神の島をさまよいながら、ミーサは魔神を神として讃え、ミーサの祖先をあしざまにいう者たちと出会う。「魔封じ」としての立場を頑なに貫き、ひたすら魔神の復活を阻止しようとしていたミーサの心に、正しいのはいったいどちらなのか、よしんば相手が正しいとして、それをそのまま受け入れていまっていいのだろうかという疑念が浮かんで来た・・・。

 「神とはなにか」−古来より多くの宗教者や哲学者らが取り組んできた深遠なるテーマに、菅浩江は果敢にも挑み、自分なりの答えを導き出している。

 神はただひたすらに、自らを讃える者に愛を与えようとする。しかしわがままで強欲な生き物である人間は、神の愛を当たり前と受けとめ、さらに別の者を求めようとする。エスカレートした望みが限界に達した時に、人は神の全能を疑い、貶め、ないがしろにしようとする。

 やがて訪れる神との破局をさけようとする意図があったのか、それともなかったのかはミーサにも解らないが、少なくとも「魔封じ」によって、神は決して限界を見せない(見せられない)、すなわちいつまでも希望を託し続けられる存在へと昇華した。

 人間の世を統治できるのは人間だけ。ミーサの父親やその先祖は、神のごとき絶対的な権力をもって国を統治している。統治される側は統治者に強さを求め、その庇護下にあって発展していくことを認めている。だが統治者は、統治することを「必要悪」だと認識し、人間としての分をわきまえて、統治によって誇りを得る代わりに、統治に付随する義務のようなもの、あるいは責任のようなものを果たそうと努力している。

 神が再び人界に降り立てば、人は神に絶対の強さを求め、果てしない欲望を神に向けることになる。神に強くあって欲しくない。善くあって欲しい。「何もうしなわずして、発展する治世はない」ということをわきまえ、時には迷うこともある人間の希望の最後の砦として、ひたすらに「善き」神であって欲しいと願う。裏返せばそれは、人間は「不屈の女神」と同様に、何者にも屈することなく生きていくことができるのだと信じている、人間の底力を信じていたいという作者の思いに、他ならないのではないだろうか。

 中身の濃さでは哲学や神学の大著にも匹敵する小説を、巨大なバストを両脇からギュッと押さえた赤井孝美描くイラスト付きで楽しめるのだから、まこと日本の「ヤング・アダルト」は素晴らしい。


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