フーバニア国異聞 水の国の賢者と鉄の国の探求者

 人間がうまく御しているように見えて、自然とか野生といったものはそうそうに御しきれるものではなくて、ちょっぴりの海流の変化が不漁をもたらしたり、逆に豊漁をもたらしたりするし、台風やハリケーンを発生させて、人間の社会に大被害をもたらしたりもする。

 日々の手入れを怠れば、雑草は野を埋めて生い茂り、やがて町を埋め尽くして森へと還す。あるいは広がった砂漠が町を砂の下へと埋もれさせる。人間にできるのは技術の限りを尽くして雑草をアスファルトの下に押し込め、迫る砂地を避けて町を移し替えるだけ。さもなくば神様に祈って野生や自然のお目こぼしを頂くだけだ。

 だからゆめゆめ自然を、野生を侮ってはいけないし、ましてや支配しようなどと考えてはいけない。刃向かえばどうなるか。裏切れば何が起こるのか。縞田理理の「フーバニア国異聞 水の国の賢者と鉄の国の探索者」(中央公論新社、950円)を紐解けば、その一端をかいま見られて自然への、野生への畏敬の念を今いちど喚起させられるはずだ。

 国王が治め工業も発達したカリカテア連合王国から、海を渡ったすぐ隣にありながらも、これまであまり探索の進んでいなかったフーバニア国へとひとりの青年が赴くことになった。グリンリー準男爵の3男坊で名はエラード。長男は優秀な軍人として讃えられ、次男も優秀な頭脳で学校を出て、父親の事業を継ぐことが決まっている。ひとりエラードだけが体力もなければ頭脳にも劣り、父親を嘆かせていた。

 才能といえば絵を描くしことくらい。それも貴族社会に認められる肖像画ではなく、挿絵と小馬鹿にされる自然や動物といったものだけ。ならばせめてその才能を活かすべきだと言われたエラードは、未だ知られざるフーバニアの地を探索し、見たものを王立科学アカデミー報告するよう言い渡され、海が開けた道を歩いてフーバニアへと渡る。

 干潮の間に歩いて辿り着ける程度の場所。それなのにカリカテアに併合されておらず、探索さえあまり進んでいないのには訳があった。攻めても敗退の連続で、700年前を最後に戦争は行われなくなっていた。探索についても人が人を食うだの怪物が跋扈するだのといったうわさ話が伝わって、誰も行こうとしなかった。

 まさかそんな。そう思いつつたどり着いたフーバニアでエラードは、人を容易に寄せ付けない自然と野生がフーバニアには満ちていることを知る。

 たどり着いた海岸でエラードはいきなりオソレドリと呼ばれる巨大な鳥に襲われる。逃げ込んだのは巨大な茸の生えた森。どうにか抜け出したものの巨大な蜂が作る巣に近づき、茸の森で拾ったクロアシミミギツネと呼ばれる小動物に教えられて逃げ出したものの今度は底なしの沼へと足を取られて沈んでしまう。そこでもクロアシミミギツネが鳴いて人を呼び、エラードは九死に一生を得てフーバニアに暮らす人たちの家へと運び込まれる。

 そこで出会ったフーバニア人たちは、誰もが親切そうで木訥で優しく、エラードを丁寧にもてなしてくれた。茸の毒を避ける方法。食べてはいけないものを見分ける方法。巨大な蜂から身を守る方法などなど。なるほど危ない動植物はいるけれど、注意を守れば人間たちが暮らしていけない土地ではないと分かった。

 それどこころかエラードの故国では高額で取り引きされる蜜やシルクが簡単に集められる豊饒の土地。パンにもミルクにもエネルギーにも不自由しない楽園のようにすら見えた。もてなされ、フーバニアを代表する六大氏族の長から出る国家代表「デリゲード」が決まる儀式も見た後で、エラードはフーバニアの素晴らしさを伝えるために故国へと帰る。

 ところが、待っていたのはフーバニアの豊富な資源を我が物にしようと企む貴族院議長の陰謀で、エラードの持ち帰った情報はフーバニアを占領し、長を捜して連れ帰るために利用されてしまった。

 更にはエラードの兄をはじめとする軍隊が大挙して乗り込みフーバニアは大ピンチ。となるところが実はフーバニアには見かけの楽園とは正反対の顔があって、軍隊を大混乱へと陥れる。それは……。

 ということで明らかになるフーバニアの秘密。見えてくるのは人間という存在の小ささで、決して地上の全生命の頂点になど立ってはおらず、むしろより大きな存在の意志によって生存を許されているだけに過ぎないのだと分かる。共存できているうちは加護もある。けれども反旗を翻せば破ればどうなるか? エラードの兄たちが受けた“歓迎”が自然の、野生の大きさ、恐ろしさを強く激しく感じさせる。

 人を遅う巨大な鳥に毒を持った巨大な茸の森。人が食らえば死に至ってその場で人を養分に発芽するミガワリの実。人が実を囓れば昏倒しその間に肉を食らいつくす補色蔦。上半身だけが馬に似て知能も発達した生き物などなど、独特の環境で発達した様々な動物や植物の描写が独特で面白い。エラードでなくてもスケッチに描き博物誌として残したくなる興味深さだ。

 そんな苛烈な土地にありながらも、存在を許され半ば守られるように生きてきたフーバニアの人たちの、優しくて人なつっこくて暢気な姿が微笑ましい。不思議なのはそれだけの平穏さが続けばいつか増長して自然を、野生をないがしろにする人が出てこなかったのかという点だけれど、住民たちにはきっとフーバニアの楽園ぶりが何によってもたらされているのかが、身につける奇妙な護符とともに受け継がれているのだろう。

 限定された平和とも言えそうなフーバニアでの暮らし。それは退屈なものではないのか、それとも己の限界を知って得た安寧と認めるべきなのか。あまりに傲慢になり過ぎて、自然を蔑ろにし過ぎるようになった人間は、いちどフーバニアで暮らしてみるのがいいのかもしれない。


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