宝石の国1

 硬くて。脆くて。柔らかくて。強くて。美しくもあって。恐ろしくもある。それが鉱物。結晶して輝く宝石たち。

 色も、形もさまざまにあって、同じ種類でも、ひとつとして同じものはない。それは、たぶん人間も同じなのだということを、市川春子の「宝石の国1」(講談社、600円)に出てくる宝石人、とでも言えそうな少年たちを見て、感じる人も多いだろう。

 主人公のフォスフォフィライトを始め、登場するキャラクターには、ダイヤモンドとか、シンシャとか、カーボナードを意味するボルツとか、モルガナイトといった名前の宝石が付けられている。陸地が欠けて幾つもの月となり、地球が滅びかけて海へと帰った生物が、長い年月をかけて結晶となって再び岸辺へと打ち上げられ、そこから人間の形を取るようになって、彼らは生まれた。

 そんな少年たちを傍らに置きたい、アクセサリーにしたいと、月から月人たちが集団になって襲いかかってくる。少年たちは金剛という名の先生の指揮下で、月人たちを迎え撃ち、奪われた仲間を取り戻そうと戦っている。とはいえ、28人しかいない少年たち全員が全員、戦っている訳ではない。服を作ったり紙を漉いたり、家具を作ったり医療を担当したりと、それぞれが自分の特徴に合った仕事を与えられ、こなしている。

 戦うのは、モルガとかゴーシェとか、硬さではナンバーワンのダイヤモンドとか、その係累でねばり強さも併せ持ったボルツといった者たち。主人公のフォスフォフィライトに至っては、誰よりも脆くて、ちょっとした衝撃で壊れてしまう特徴から、当然のように戦闘の最前線には出されなず、代わりに金剛先生から、博物誌を作るようにと言いわたされる。

 人それぞれ。もしくは宝石それぞれ。硬ければ楯になれるけれど、脆くても知識は集められる。誰であっても何であっても上下になるような価値をつけず、並べ認めていこうとする気持ちが、そこに何となく見て取れる。

 フォスフォフィライトは仲間の少年なり、暮らしている世界の様子なりを記録していく役目を与えられ、最初は不満に思っている。それでも、金剛先生の一喝で崩れてしまう自分に出来ることは、それくらいだと感じるようになり、あちらこちらを回っては、月人たちを迎え撃つ、仲間たちの戦いぶりを間近でみたり、他の仕事に就いている、仲間たちの受け止め方を感じ取ったりする。

 そうした中で、フォスフォフィライトだけでない、誰もが抱えた自分への疑問や悩みも見えてくる。体から毒液が流れ出しているシンシャは、その体質から、他の皆といっしょにいられない。戦いに出るのも夜ばかり。そして夜に月人たちはやって来ないため、月へと連れて行かれることもない。そんな、誰にも必要とされていない自分に苦しんでいる。

 ダイヤモンドは、宝石でも随一の硬さと、そしてキャラクターとしてもそう描かれている美しさもあって、とても人気者のよう。けれども一方に脆さもあって、同じダイヤモンド仲間のボルツが、最前線に常に立って戦うことに心を痛めている。

 それぞれの宝石が持つ特質を、キャラクターに乗せて表したものでもあるけれど、人間が持っている寂しがりやだったり、脆弱だったり強靱だったりといった性格を、写したものでもありそう。様々な宝石たちが同じコミュニティにあってぶつかり合わず、ひとつ目的のために頑張っている姿から、読者は単純なキャラクターの描線の可愛らしさ、コミカルさも見せるフォスフォフィライトの楽しさとは別に、人としてどう振る舞えば良いのかを、考えたりできる。

 月人のしつこさも、どこか仏教的な様式も独特だけれど、そこは市川春子だけあって、「地上最強の男竜」を描いた風忍のような、曼陀羅がそのまま漫画になったような濃さはない。ちょっぴりのグロテスクさを醸し出しつつ、耽美な雰囲気と少年たちならではの爽やかさを漂わせてくれる。キャラクターたちの可愛らしさや凛々しさは、過去の幾つかあった作品から進歩して、誰をとっても人気が出そうな容姿や性格を持たせている。

 気になるのは本当に男の子ばかりなのか、それとも女の子も混じっているのか、鉱物だから性別はないのか、といったことか。ダイヤモンドなんて本当に可愛らしすぎるから。あとは金剛先生の秘密か。ひとりだけ壮年で、宝石たち以上にパワフル。その正体は? 果てしないように見える月人たちとの戦いの行く末は? これからの展開から目が離せない。


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