突撃彗少女マリア 出撃の章

 女の子が箒にまたがり空を飛べば、下にいる人の目にいろいろなものが見えて当然だ。上下左右に動くのだから、風に煽られひらりひらりとまくれあがったスカートの下に、着用している例のものが露わになっても不思議はない。

 とあるアニメーションでは確か、第1話で魔法使いの少女が高い場所から箒にまたがったまま垂直落下して来た時に、はいていたスカートが鉄板のように固く垂れ下がったまま一切まくれあがらなかった。しっかりとお尻の下に敷かれたまま、またがった彗の柄で抑えられてふわりともしなかった。

 そういう防御の方法があっても決して悪くはない。だがしかし、激しい動きの中で常にしっかりと挟み込んでおくことは可能なのだろうか? 裾までも鉄板のように垂れ下がったままになるものなのだろうか? 考えれば不思議なところがいくらもあるが、きっとそう描かざるを得ない事情があったのだろう。

 そう考えると、吉田親司の「突撃彗少女マリア 出撃の章」(ガガガ文庫、600円)の口絵に織り込まれていたピンナップを広げて見た時に、きわめて明確に、そしてくっきりと、スカートの下にある例のものが描かれているのは実に素直でs正しい表現だと言える。女の子が彗にまたがり空を飛べば、それは見えて当然なのだ。

 ただし、常に見えるものがそれだとは限らない。実際に「突撃彗少女マリア 出撃の章」の本編で、少女たちはしっかりとスパッツを履いていたりする。なるほど見えるのだったら見える状況なりに見せない努力をするのだということか。現実は厳しい。ここは素直にスパッツであっても見えることを喜ぶべきだろう。

 違う、現実には女の子であろうと誰であろうと、彗で空を飛ぶ人なんていない。だから空を見上げても何も見えない。ではいったいどうして口絵の少女は見せているのかというと、その世界で日本人の少女は、処女ならば彗にまたがり空を飛べるようになっていたからだった。

 中でも箒の扱いに長けた少女たちは、選ばれ鍛え上げられては航空自衛軍へと入り、台風のように海から現れては日本に上陸して莫大な被害をもたらす、エビだのタコだのといった「海獣」を相手に戦う職務に就いていた。

 そんな自衛軍でも精鋭の部隊を指揮する蓮蛇涼香には、10歳下の摩里愛という妹がいた。飛行の才能を涼香に認められながらも摩里愛は戦いへの道を選択せず、姉の求めに応じて韋駄天学園には入ったものの、彗飛行科ではなく家政科へと進んでしまった。

 沖縄にあるその学園で、摩里愛はしつこく転科を促す姉のプレッシャーを受けながらも、とりあえず平穏な学生生活を送っていた。そこに、映画スターとして大人気のアイドル男優にそっくりな顔をした、江隻恵瑠という転入生がやって来た。

 空を飛ぶ上で必要なだけでなく、処女の証ともなっている彗を持たないで現れた恵瑠の存在に不思議な感情を覚える摩里愛。やがて起こった事件の中で、覚えた感情の原因が明らかとなり、そして摩里愛のどこか逃げていた日々に新しい目標が誕生する。

 彗で空を飛ぶ力を持っていることが尊ばれ、羨まれる社会ならもっと女性に対する敬意が育まれ、男性よりも女性が優位にある構造が出来上がっていても悪くはない。最初から箒にすら乗れない男性など、種族維持のための種に過ぎない。必要な時だけいればそれで結構といった、よしながふみの「大奥」にも通じる女性上位の社会になる可能性もある。

 けれどもこの世界では、彗で空を飛べる処女であることが尊ばれる一方で、乗れなくなってしまう女性を低く見る風潮の方が、上に来てしまっている。恋愛に生きたい開放的な女性には居心地の悪い社会。だからこそ彗に乗れる乙女たちを、彗から開放する必要性を訴え広く支持を集める中年の女性党首も出たりする。

 あるいは変化の過渡にある社会なのかもしれない。箒に乗って飛べるのが日本人女性だけという限定性が男性の安心を担保して、社会に変革を起こさせないのかもしれない。力への敬意が高すぎるが故に、力を失った女性への落胆が差別を生んでいるのかもしれない。さまざまな想像をかきたれられるという意味で、興味深い設定だと言える。

 ともあれいろいろと裏のありそうなこの世界。海から出てくる海獣が、どうして日本にばかりやって来るのか? そもそも日本人の処女だけがどうして箒に乗れるのか? 浮かぶ疑問への答えが、今後の展開で明らかになって行けば違和感も払われ、世界への理解も深まるだろう。

 それまでは、まだ飛べるうちに摩里愛の彗での落下シーンを、スパッツ抜きで精一杯に描いて頂きたい。恵瑠が一緒でも別に悪くはない。趣味はどうあれ見かけは……なのだから。


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