ヒツギでSOSO!

 肉親を殺された憎しみから、殺した相手の命を奪いたいと思うのは、人類が感情を持った昔から変わらない。個人的な範疇ならそれは復讐なり仇討ちといった形で現れ、国家的なスケールになれば、軍隊による報復攻撃といった形で発現する。

 もっとも、仇討ちが新たな悲しみを呼び、憎しみを生んで次の仇討ちを招くことも、また国家による報復が、相手のさらなる報復テロなり攻撃を招いて、悲しみと憎しみを増幅させることも、古来より変わらない。憎しみの連鎖を人はなかなか断ち切れない。

 断ち切れなくて当然だ、そもそも最初にテロを起こした勢力、最初に人を殺害した人間が悪いに決まっているから、報復されても仕方がない、といった声もある。むしろ大勢を占めているから、国家によるテロへの報復攻撃は支持される。個人の仇討ちはさすがに現代では困難だが、代わって法律が肩代わりして罪人を裁き、処断する。死刑。遺族はそれで埋まらない悲しみを埋めようとする。

 だから議論の余地などない、連鎖を断ち切るのではなく、厳罰によって最初の鎖を作らせないことしか他にない。と、そう言い切れるのかというとこれがなかなかに難しい。テロは断罪されるべきだが、テロを起こさざるを得なかった理由があるはずだ。人を殺害した人間にも、ただ快楽のために行為に及んだのではない者もいる。

 根源を探れば人類の発祥にまで行き着くかもしれない問題を、今、元から断とうとしても出来はしない。ならば途中で断ち切るよりほかにない。そのために必要なのは何だろう? そんな問いかけにひとつの答えを示してくれるのが、文岡あちらの「ヒツギでSOSO!」」(ファミ通文庫、600円)だ。

 国際文化センターが破壊されたテロで大勢が死んで10年。頻発するテロとその報復テロが止まず、凶悪犯罪も後を絶たない中、死刑制度を存続させている大米共和国は、より制度をスケールアップさせ、抑止効果を高めようと考えた。凶悪犯罪の犯人は、大勢の前で公開処刑する。それも従来にない派手な演出の中で処断する。

 鉄槌を下すのが、凶悪犯罪やテロで肉親や大切な人を失った遺族に現れる、不思議な能力が使えるようになる「PTSD」(心的外傷後超人障害)の発現者たちだ。大米共和国はそんな彼ら、彼女たちを一級処刑官として認定し、常人にはない力を振るわせ、世間に処刑される恐怖を見せつけていた。

 大米共和国と同様に死刑制度を存続させている真日本でも、大米共和国に押されるままに公開処刑を制度化していた。そして、処刑官こそがエリートという風潮が芽生える中で、「十三学園」という学校を作り、処刑官を育成していた。

 その中に1人、過去に凶悪犯罪に遭遇した経験があったことから、「PTSD」を発現する可能性があると見なされ、特待生として「十三学園」に入った比津木奏輔という少年がいた。選ばれたからにはと、勇んで一級処刑官になろうと頑張るはずなのに、奏輔は処刑官になるのが嫌なのか、「PTSD」を発現させないままエリートコースを歩まず、処刑された人を対象に葬儀を営むコースで学生生活を送っていた。

 その日も「十三学園」では、大米共和国の移民局を爆破し、数百人を殺害したという罪で捕らえられたテロ組織「バレットフィスト」のリーダーが処刑されることになっていた。国際文化センターのテロで肉親を失ったことで「PTSD」を発現させ、大米共和国からプロと認められた一級処刑官のキリコ=イバライとこ荊井姫離子が処刑台に上り、鉄腕を振るい炎で焼き尽くす「パンツァートーチ」の能力でテロリストを貫き死に至らしめる。

 そして葬儀屋の出番と、奏輔が準備を始めたところに乱入者あり。リーダーの娘として育ったアリカが、「バレットフィスト」の仲間たちとともにリーダーの遺体を奪還しに乗り込んできた。その行動に奏輔ともう1人、同級生でエンバーミングが得意な条禅穂風里という少女が巻き込まれてしまう。

 憎むべきテロリスト。自身も過去にテロで両親を失った経験を持ち、それが故に「十三学園」に特待生として入ったにも関わらず、奏輔は当局に通報せず、リーダーの遺言に従いアリカの頼みも聞き入れ、リーダーを正式な風習にのっとって弔おうとする。面前で遺体の奪還という辱めを受け、テロリストを追い始めたキリコ=イバライに逃げる奏輔たち一行の、追い追われる展開の中で、奏輔は何者かによる謀略の存在に気付く。

 浮かぶのは、犯罪やテロを起こし、報復をしてその繰り返しが果てしなく続く連鎖の虚しさだ。目には目を、とばかりに鉄腕をふりまわし、大好きだった少年の死に報いようと頑張るキリコ=イバライは、一般的な感情を凝縮させた代表的な存在だと言えるだろう。けれども、その振る舞いがひとつの悲しみを埋めても、別の悲しみが生まれ、怒りが生まれ憎しみが生まれることは止められない。

 だからといって、連鎖を途中では断ち切れないキリコ=イバライたちの行動が、果たして妥当なのか? と、物語の展開や奏輔の言葉と行動を通して投げかけられる。同時に、だからといって奏輔たちこそが正義かと問われて、そうだと断言できない迷いに駆られる。難しい。難しいけれどもヒントは投げかけられている。

 同じ「9・11」をきっかけに変貌した世界を描いた、伊藤計劃の「虐殺器官」(早川書房、1600円)が、憎しみと怒りの連鎖の果てに滅亡へと歩む世界を描いて、未来に絶望感を与えたのと比べると、「ヒツギでSOSO!」は、たとえ青臭くても前向きで開放的な世界の姿を想像させる。

 新人賞の「ファミ通えんため大賞」の選考会で物議を醸した末に、落選となったという触れ込みだけあって、確かにライトノベルという枠組みにはそぐわない設定かもしれない。しかし一方でライトノベルだからこそ語れる物語だとも言える。一般向けの「虐殺器官」が、リアルさを求めるが故に悲観に走らざるを得ないのだとしたら、そんな悲観をバーチャルな想像力で覆って明るく前向きな方向へと変えてみせようとする大きさを「ヒツギでSOSO!」は持っている。

 ライトノベルのフォーマットだからこそ、突拍子っもない設定を持ち込めてあっけらかんとした展開に持ち込めて、そして圧巻のメッセージを放てるのだ。

 選べと言われて選ぶとしたら、「虐殺器官」と「ヒツギでSOSO!」のどちらになるのだろう? 諍いや争いの嫌いな人間ならば「ヒツギでSOSO!」になるだろう。けれども、果たして肉親が危害を受けていたとして、そう言い続けられるのかどうか。難しい。難しいけれどもしかし……と考えはぐるぐる巡る。それでも意味がある。考えることから変化は始まるのだから。


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