ひとり暮らしのOLを描きました 

 苦しくて哀しくて切なくて寂しくて。辛くて酷くて悔しくて痛ましくて。

 黒川依の「ひとり暮らしのOLを描きました1」(徳間書店、920円)を読んで浮かぶ感情。それは、主人公への同情であると同時に、自分自身への卑下にも似た憐憫の情となって全身を包んで、どうにも居たたまれなくさせる。身をかきむしりながらのたうち回りたいと思わせる。

 描かれているのは、タイトルどおりに、ひとり暮らしのOLの日常で、そこにはどこか奇をてらったような展開はなく、ひたすらに淡々と、ひとり暮らしのOLにありそうなエピソードが綴られている。そして、そのことごとくが苦しくて切なく、辛くて痛ましい。

 とても良い天気なのに会社に行かなくてはならず、抑えられない感情から目に涙が滲む。ようやく部屋の掃除ができたと思ったら、ゴミをつめたゴミ袋に入れた箸がビニール袋を突き破って飛び出してしまう。気がつくと1カ月が過ぎ去って、何もしていなかったことにふと気付く。溜めてしまった洗濯物に手を着けられず、その上に寝転んで呆然とする。

 誰にだってあることで、とりたてて騒いだり嘆いたり、落ち込んだりすることではないのかもしれない。そんなことにとらわれていたら、この厳しい世の中でひとり生きていくことなんて出来はしない。もっとおおらかに。もっと適当に。そうやって過ごしていれば、毎日なんてすぐ過ぎ去って、そして哀しみも切なさも、酷さも悔しさも感じないで済む。たぶんそうだろう。

 そして気がつくと、自分自身がそうした諦めの上に毎日を惰性で過ごしている。晴れているからといって会社に行くことを厭わず、洗濯物が溜まっているからといって嘆かず、週末を夕方過ぎまで眠ってもまあいいかと受け流し、二次会に行こうと誰からも誘われなくてもそれが当然だからと納得し、ひとり家に帰ってネットに溺れる。そのことを哀しいとも切ないとも思わない。やがて見渡すと、何十年も経ってすっかり老いの境地に。それが人間、現代の都会に生きている。

 けれども、本当にそれで人間として良いのだろうか。毎日はもっと明るさにあふれ、楽しさに満ち、夢とか未来とかいった言葉に引っ張られて、前向きに過ごしていった果てに、何か嬉しいことが待っているかもしれないと思い、生きていくべきではないのだろうか。諦めたくないのに、どこか諦めてしまっている自分自身を振り返った時、毎日の出来事に哀しみを覚え、辛さを感じ、痛々しさを醸し出してみせるひとり暮らしのOLの姿は、人生をまだ諦めていないといった思いを、放っているようにも映るのだ。

 買ってきたカップ入りの高級アイスクリームを、そのまま食べず取り出して3段重ねにして喜び、ワインを試してみようとして合わず、ブドウジュースを混ぜて飲んで美味しいと嬉しがり、たまの休みを好きなDVDを観て過ごし、それを観られたことを心底から喜び、蛍光灯を買い忘れても、買い置きのアロマキャンドルを点すことで、暗闇にほのぼのとした明るさを見る。ささやかでも幸せを感じられる瞬間が紡がれる。

 あるいはそれらは、日々を喧噪の中で忙しく過ごしている人にとって、幸せだなんて感じられない些事かもしれない。それでも、ひとり暮らしのOLにとっては、ささやかながらも幸せを感じられるひとときに違いない。それは同時に、ささやかであっても幸せを感じることまで捨てて、日々を怠惰に過ごしてしまいがちな自分たちへの戒めでもある。何でも良いから幸せを探せ。喜びを感じろ。嬉しさを覚えろ。その積み重ねから、人はより大きな幸福へと向かって足を踏み出せるのだ。

 可愛いけれども可愛そうといった感情から、この「ひとり暮らしのOLを描きました1」を好きになっても構わない。言葉を添えずシチュエーションとそれを表現する絵だけで、ひとり暮らしのOLの、心に寂しさや苦しさを抱え、それでも毎日を懸命に生きようとする姿を、心情ともども描き出した作品の素晴らしさに、憐憫を覚えて感嘆するのも良いだろう。ただ、見下げたような憐情ではなく、同じ境遇からの同情にも留まらない、共感から先へと向かい未来を探る糧として、この作品を味わって欲しいとも思う。

 いつかひとり暮らしのOLが、楽しくて嬉しくて明るくて喜ばしい毎日を送れるようにと願いつつ、自分自身がそんな毎日に近づけるようにと、ちょっとでいいから努力する。その1歩をさあ、この作品を読み終えた今から始めてみよう。まずはカップのハーゲンダッツを3段重ねにして食べるとか。誘われた宴会の2次会に頑張って出てみるとか。


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