ひまわりの祝祭
LE FESTIVAL DU TOURNESOL


 「テロリストのパラソル」(講談社、1359円)でホットッドッグを上手に作れるバーテンを登場させたと思ったら、「ひまわりの祝祭」(講談社、1700円)ではアンパンに牛乳が好物の風太郎とは、藤原伊織はよくよく食べ物にキャラクターを象徴させることが好きらしい。ホットドッグの緊張感に対して、アンパンのなんともいえないシマリの無さ。おまけに「ひまわりの祝祭」の風太郎、秋山秋二ときたら、コンビニで売られているホイップクリームドーナッツを食事代わりに幾つも頬張り、朝食といっては牛乳にポッキーを合わせる自堕落ぶりだ。

 フヌケ同然の暮らしを続ける男が、どうしてハードボイルドの主人公になりえるのか。もしかしたら海外の特殊部隊で鍛え上げられた、凄腕のスナイパーなのかもしれない。それとも警察キャリアをドロップアウトした築地の鮫(さめ)だろうか。いやいやとんでもない。「ひまわりの祝祭」の秋山は、若くして日本アートディレクターズ協会のグランプリを受賞した経験を持つ元売れっ子デザイナー。体育会系どころか文化系もその最先端をいく経歴の持ち主に過ぎない。

 おまけに7年前に妻をなくし、親から継いだ築地の家で、ひとりアンパンをかじり牛乳を飲む自堕落な暮らしを続ける、企業の論理で言えばただの「落伍者」だ。妻を死に追いやった存在への怒りに燃えることもなければ、自分のふがいなさにもだえ苦しむこともない。流れから身を引きただ1人朽ちていくことだけが望みのようにすら見える。

 自堕落の奥底へ突き落とされたまま、秋山はどうして一向にはいあがろうとしないのか。「ひまわりの祝祭」という一編を通して語られるその理由が、真面目そう、誠実そうな人物でも、その仮面の裏には不真面目で不誠実で我侭で利己的な本性が潜んでいるという、人間の残酷な現実であったことに、読後誰もが呆然とさせられることだろ。純粋さを保つためにはなんらかの犠牲が必要だとうい現実に愕然とさせられるだろう。

 七年も前にそのことを経験した秋山も、やはり呆然とし、愕然としたに違いない。そして自堕落な生活の中で、ぶつけどころのない怒りを少しづつ澱にかえて、心に積み重ね続けていたに違いない。やがていっぱいになった澱が、彼の心を窒息させて、妻と同じ場所へと向かわせる日を夢見ていたい違いない。

 しかし秋山を、再び残酷な現実へと引き戻す出来事が起こった。かつて勤務していた会社の共同経営者で、今は独立してデザイン事務所を営んでいる村林が、雨に濡れる築地の家を訪ねて来たことが、終わりへと向かうすべての始まりだった。「カネを捨てるんだ。それで手を借りにきた」。村林の奇妙な頼みを受けた秋山が訪れたのは、赤坂にあるカジノバー。そこで秋山は、持ち前のギャンブルの才を発揮して、すべてを裏目にかけて瞬く間に村木が持っていたカネをドブに捨てた。

 だが、老人と美女の二人連れがカジノを訪れると、村林の態度が一変して、秋山に勝ちに回るように命じた。それを受けた秋山はひたすら勝ち続け、老人と美女の二人連れから数千万円を巻き上げた。勝負が終わったその時、秋山は美女のもとへと近づく。美女は秋山の死んだ妻にそっくりだった。そしてあろうことか、その美女は秋山の妻が自殺したことを知っていた。

 秋山がカジノへと足を運ばざるをえなかった理由といい、そこで妻の英子にそっくりな女に出会ったことといい、偶然では説明できない何かが、彼をめぐって起こり始めていた。それがやがて、存在しないはずのファン・ゴッホの「ひまわり」にまつわる、巨大な組織どうしの陰謀だったと解った時、秋山はかつて覚えた射撃の腕前の錆を落として立ち上がった。

 将来の対決を見越したように、秋山は銃器の扱いに慣れ、銃器の確保にも成功していた。都合の良すぎる展開だが、しかしこう考えれば合点が行く。英子が死んだ時点で、その原因をうすうすと察した秋山は、いつか復讐する日を確信はしていないものの「漠然とした予感」(353ページ)として持っていたのだろう。ただあまりにも大きかった裏切りへの衝撃が、彼をして七年の眠りにつかせた。

 七年の時を経て、残酷だがまさしく言葉どおりの現実に戻った秋山に、待ち受けている日々は辛く厳しいものになるはずだ。だが彼は、それをあまんじて受け入れるに違いない。なぜなら彼自身が誠実なこと、純粋なことを隠れ蓑にして生きていたこと、それが英子を死に追いやったことに気づいたからだ。

 芸術を愛するが故に己の限界に気づき、それでも芸術を忘れられずにいる元芸術家たちが織りなした喧噪は、人を魅了してやまず、それを得るためには犯罪すらも厭わないという、「美」が持つ悪魔的な一面を垣間見せてくれた。そんな「美」の呪縛から解き放たれて、もっと大切な物を見つけた秋山に、ようやく取り戻した現実の日々を、贖罪のために受け入れる気持ちこそありはすれ、厭う気持ちがあるはずがない。

 「静かでなにもない生活がやってくる」。隠遁した暗闇の中の静けさではなく、覚悟した光の中の静けさを、やっと見つけることができた。ゆっくりとした時が動き始めた。


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