ひかりの剣

 医は剣術。

 とは限らないけれども剣術、すなわち剣道の極意を得た者に備わる、泰然自若として己を客観視しつつ、修羅場には率先して剣を頂き突き進む、といった剣士のメンタリティやパーソナリティは、冷静さが求められ、同時に英断も必要とされる医者の世界でも、常に求められているものだろう。

 だからこれから医療を受けようとしている人は、担当した医師に剣道は何段で、医鷲旗を過去に獲得した経験があるかどうかを尋ねて見ると良いだろう。医鷲旗。それは主要な大学の医学部が持つ剣道部が、全国大会で勝ち抜いて得られる優勝旗のことだという。

 そして、その医鷲旗を争う医者の卵たちを描いた小説が、海堂尊の「ひかりの剣」(文藝春秋刊、1600円)だ。舞台となっている時代は1988年ごろ。世間はバブル経済のまっただ中で、誰の目にも未来は薔薇色に見えていた。直後に来る株価の暴落、不動産価格の下落、大型倒産の続出から未曾有の不況へと突き進むことなど、誰の頭にもなかった。

 ただし、医大の世界では程なく入学定員の削減が行われる可能性が取りざたされていた。理由は少子化。さらに一方には、高齢化に伴う医療希望者の増大に医師の供給が追い付かなくなって医師不足が起こり、これに伴って医療サービスも低下するのではと懸念されていた。

 社会的には大問題。もっとも剣道部員たちには、そうした未来よりもまずは目先の部活動が重大事。入学定員の削減で入ってくる学生が減り、剣道を嗜んでいた新入生も減って部の力が落ち、医鷲旗の獲得も難しくなるのではといった心配が浮かんで、誰もがモヤモヤとした気分を抱えていた。それでも医鷲旗を目指す気持ちに変わりはなく、どこの医大剣道部でも部員たちは日々の鍛錬に励んでいた。

 そんなひとりが東城大学の速水晃一。誰かとすぐに気づいた人は、海堂尊の作品の深い読者だろう。後に「ジェネラル・ルージュ」と異名を取るほど、救命救急医療の現場で陣頭指揮をとり大活躍する医師が彼だ。けれども学生の当時は、そこそこに強いながらも達観には及んでいない学生剣士。前年の医鷲旗には決勝で敗れて手が届かず、今年こそはと6年生なのに居残った前園先輩も擁した陣容で、夏の大会での優勝を目指している。

 もうひとりが帝華大学の清川吾郎。こちらも海堂尊のファンなら聞いたことのある名前だろう。生殖医療について書かれた「ジーン・ワルツ」の登場人物で、“グチ外来”の田口を主役にして「チーム・バチスタの栄光」から始まった人気シリーズからは離れているため、知名度はやや薄いながらも、速水に負けない傑物として名を轟かせている。

 ちなみに、田口と速水が同級生なのは「ジェネラル・ルージュの凱旋」でも描かれていた周知の事実。だから田口は「ひかりの剣」にも登場しては、速水と同じ実習班に入って手術に立ち会い、噴き出す血を見て卒倒したりと今につながる脳天気さを見せている。

 現場ではプロの意識を説く渡海医師に、それでも患者のことを考えてあげたらと反論する純粋さを発揮している田口。ここに出てくる渡海もまた、東城大学で1988年に起こった事件を描いた海堂尊の「ブラックペアン1988」に登場する重要なキャラクターだったりする。

 「ブラックペアン1988」の主役は高階権太。「チーム・バチスタの栄光」から続くシリーズでも、狸親父的な役柄を見せてストーリーに絡む高階が、帝華大の助手から東城大の講師となり、佐伯外科に入って渡海医師も交えながら活躍した「ブラックペアン1988」の裏側で、というよりは速水ら学生の方をメインに据えて進んだストーリーを描いたのが、この「ひかりの剣」ということになる。

 そうした背景を知っていれば、スピンオフ作品として一種のオールスターキャスト的な小説として楽しめそうな「ひかりの剣」。もっとも、海堂作品の他の展開を知らなくても、若くて悩める剣士たちが、ひとつ目的を持ち鍛錬に励み、ライバルを相手に鎬を削りながら剣士としての極意をつかみ、医師としての心構えも得て成長していく青春スポーツ小説の佳作として、大いに楽しめる。

 強いけれども責任感がやや上滑り気味で、態度も杓子定規になっていた速水は、思いも寄らない相手に敗れたことで自らを諫め、高階顧問のつかみどころがないものの極めて適切な指導のもと、内面を鍛え技も鍛えて強くなる。

 ライバルの清川は、もとより高いプライドと並々ならぬ才能が、どこか剣道と真正面から相対することを邪魔していたけれども、そんな気持ちを見透かされ、追いつめられた果てに気合いを入れ直し、修行を重ねて強くなっていく。そして2人はともに、医鷲旗をかけた闘いの場へと歩を進める。

 本当の剣で人を刻んで命を救う医術と、偽物の剣で相手を叩いて架空の命を奪う剣術。裏表のような関係が重ね合わさったところに医者として、というより人として必要な情熱と冷静、畏敬と英断といったものが育まれ培われていく。そんな医術と剣術の関わりみたいなものについて考えさせられ、だからこそ剣術を極めた医者に看てもらいたいという気持ちを浮かばせる。

 ころあいも同じく刊行された、誉田哲也の「武士道セブンティーン」(文藝春秋、1476円)で繰り広げられた論陣では、剣道は武術であり、武士道であってスポーツとは似て違いものなのだということになっていた。医術との関わりを描いた「ひかりの剣」と合わせると、単なる勝ち負けではない、内面の鍛錬と技術の向上を供に進めた結果をぶつけ合う剣道は、それでひとつの思想であり、実践なのかもしれないと思えてくる。

 剣道小説として、青春スポーツ小説として純粋に楽しめるエンターテインメント。帝華大の薬学部に入って、剣道部のマネージャーになった朝比奈ひかりというキャラクターの存在感も気になるところで、今後のシリーズにどんな形でもいいから、出して欲しいと願ってやまない。


積ん読パラダイスへ戻る