−ひかり−

 なんだろう。このゾワリと胃袋を内側から撫でられるような感覚は。凛野ミキ。残酷な描写にあふれながらも、可笑しい気持ちに浸れるコメディで知られる漫画家の作品が、笑いではなく喜びでもなく、悲しみと憤りを招いて心臓を温く掴んで話さない。

 「光 第1巻」(一迅社、552円)。突然襲った腹痛から、阿高が醒めると奇妙な痣がひとつ、腹に浮かんでいた。同じ頃。恩田という少女にも、凪央という少年にも痣が生まれ、そして戦いの火蓋は切って落とされた。

 止まる時間。阿高だけが動ける。動き回ってコンビニに行くと、閉まったガラス戸の向こうに恩田が閉じこめられていた。ガラスを割って外に出す。通りかかる凪央。動けるのは3人だけ。何が起こったのか?

 そこに現れた斎賀という少年。凪央をスーリヤ(太陽)と呼んですがり、阿高をブッダ(水星)と呼び恩田をチャンドラ(月)と呼んで「消えちゃえ」と誹り、そしてスーリヤこと凪央に手を差し出させてその先に己を投げ出す。

 放たれる炎。燃える斎賀の体。凪央の手のひらには斎賀の頬にあった文様が移り、そして凪央は炎を放つ力を手に入れる。凪央は惑星。斎賀は星座。あの腹痛を堺に、世界は一変していたのだった。

 だから何が起こったのか? インド占星術。月と太陽と水星金星火星木星土星と、蟹座や獅子座といった星座が関わり合いを持ちながら運勢を占う技術をなぞらえるように、惑星に象徴される人たちと、星座に支配される人たちが現れ、そして戦いを始める。

 それは過酷な戦いだった。惑星はパートナーの星座が死ぬと、ひとつ力を手に入れる。凪央の炎もそのひとつ。そして星座はパートナー以外の惑星を憎む。命さえ奪おうとする。だから斎賀はブッダとチャンドラに「消えちゃえ」と言った。パートナーのスーリヤに「神様になって」と告げた。

 どういうことなのか。それは未だ判然としない。星座は阿高とペアの少年が現れ、勘違いした凪央に燃やされ阿高に力を残して消える。阿高と同じ部の同級生ながら、星座となりパートナーではない阿高をつけ狙う少年が現れる。電車で阿高を見つけて、その頭に嘔吐し後に阿高の家へと侵入して阿高を危めようとした少女も現れた。

 目的はそれぞれのパートナーである惑星への貢献心。自分が惑星だと気づいた時に得られた情報で、星座は惑星のために力を残して死ぬのだと知る。それを認めて斎賀は燃えた。けれども中には運命を受け入れない少女もいた。「光 第2巻」(一迅社、552円)で現れた、癒しの力を持った蟹座の少女は、どの惑星も殺したくないといって惑う。

 惑星たちも殺し合いは好まなかった。「光 第2巻」では、惑星に木星と火星と金星と土星が加わる。蟹座の少女を保護し阿高をつけ狙う阿高の同級生からも逃げ回った。そうしていればいずれ変化は収まると思いたかった。蟹座の少女が、死して力を惑星に渡す運命を逃れて、生きようとする気持ちに乗りたかった。

 しかし運命は残酷だった。現れた謎の2人組。ラーラとケートゥ。インド占星術で、太陽の軌道と月の軌道が交差する2つのポイント、すなわち日食と月食を示す名に持った2人組が現れ、阿高や凪央らに迫る。それでも2人組を撃退すれば大丈夫。そう思いたい気持ちに蘇る。斎賀の言った言葉。「だからどうか君が神様になって」。

 起こっているのは運命の戦士たちの誕生だ。けれどもそれだけではない。太陽に月に水星金星火星木星土星と現れた惑星の痣の持ち主たちは、集まり顔見知りとなり肩を寄せ合って生きようとしている。襲ってくる星座を撃退し、ラーラとケートゥすらも相手に戦いを挑んでいく。果てにあるのは何だろう? それは仲間を持つ素晴らしさを讃えるドラマか?

 答えは多分ノー、だろう。阿高は誰かに親切にしないでおかれない。それを自分は優しさだと思う。他人から優しいと思われることで安心する。それがだったら襲ってくる星座に通用するのか。殺さなければ殺される状況下で親切を貫き通せるのか。出来ない親切など見せかけに過ぎない。ただの逃げでしかない。

 恩田は阿高が気になって仕方がない。彼が親切を好むなら星座を殺して力を手に入れることはしない。けれども彼女は強くなりたいとも願っている。人目を意識しないで自分の思いに素直でありたいと思っている。そんな彼女がいつまでも星座を生かしておけるのか。襲って来る敵から逃げ回っていられるか。

 試されている。みんな試されている。陽気な凪央のように、気にせず敵なら殺せるのかを。手に入れた炎を放つ力を「ゴー」と呼んで、喜び盛んに火を放つ彼のようなあっけらかんとした感覚を手に入れられるのかを。無理だろう。いずれだから起こるのだろう。まずは惑星と星座の間の殺し合いが。

 そしてその次。惑星たちの覇を荒そう最後の戦いの火蓋が切って落とされ、誰か1人が「神様」になるための試練が始まるのではと想像が浮かぶ。親切さがウリだった阿高に、そんな殺戮の宴を乗り越える力はあるのか。あっけらかんと敵を排除する一方で、見方には懐く凪央が、仮初めの友人関係を清算して1人独善を貫き通すことになるのか。

 想像もつかない。けれども体感はしている。誰かを助けて1人犠牲になる嘘臭さ。誰かを救おうとして救われるのは自分だけだという身勝手さ。己が欲望のために命の軽重を自在に操り省みない冷酷さ。「光」の中、昨日までとは違う世界に身を落とした少年たち少女たちのあがきと迷いが、人間に秘められた本能の荒々しさと、人間が育んだ理性の脆さを浮かび上がらせる。

 そして、かろうじて踏みとどまっている一戦を少年たち少女たちが超えた時。さまざまな思いが一気に吹き上がって、戦士達が世界を救うありきたりのドラマにはない、憎悪を原罪として抱き欲望を刷り込まれて育っ、今の時代の戦士たちの苦渋に満ちた決断が、描き上げられることになるのだろう。王とは何者か。王が何故に求められたのか。明らかになるのだろう。

 それまでも、そしてそれからも心にカタルシスは訪れそうもない。むしろ暗黒の記憶を持って現れ人を恐怖に染める。屈辱に浸らせる。これこそが人間の本質を暴く物語だと言えないこともない。だから胸を抉られるような、腹を内側から削られるような不快感が起こる。人は皆、醜さを仮面で隠した表層を見せ合って、社会を円滑に過ごしているのだから。それを崩そうとする物語を嫌悪するのも当然だ。

 もっとも。本質が表層に勝る訳では決してない。本能が理性を超えるとも限らない。人はそうして進化して来た。文明を育んで来た。でなければ人はとっくに滅んでいた。果たして「光」はそんな人の勝利のドラマを描くのか。それとも人が人ではなくなる様を、それは獣かもしれないし、逆に神かもしれない何かに変じる姿を描くのか。

 まだ見えない。故に気になる。果たして描かれるのは喜びか悲しみか。怒りか笑いか。進む物語の中から浮かび上がるだろう真実を、待ち望む人たちに祝いと呪いあれ。


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