ひぐらしの森

 「いい景色だね」。

 雪が降る。「ほんとに、この冬はまったく降らないで、少々淋しい思いをしてたんだが、今夜はもう、幸せにも上等の気分でふとんにもぐりこめるというもんだよ」。

 窓の外を落ちて降り積もる雪を見ながら、教師が発した言葉を大勢はクスクスと笑い、少数は「この雪で受験生のどれほどが立ち往生したかしれないんだよ」と憤る。

 高校入試の日。すべての試験が終わって、答案を集めた監督の教師が「さて」と言って続けた言葉に、けれども萩志生野は好意を抱いた。

 教科書と参考書をにらんだまま、夏の日差しを忘れて過ごし、模試の成績表に一喜一憂して、秋の涼風も感じずに越して迎えた冬。緊張感から解き放たれた少女に、降る雪の積もりゆく光景がもたらしてくれる心地よさを、教師の言葉が思い出させてくれた。

 降り積もる雪。舞い落ちる桜の花びら。あたりまえのように起こり過ぎていく季節の諸相を美しいと感じ、愉しいと思える心の持ち主だったからこそ志生野は、雪の校庭で左手の平を上に向けて、空を見上げる美しい少女に気がついた。入学式の前に桜の花びらがそよぐ校庭で、同じように手を差し出す美しい少女が気になった。

 少女も志生野を気にしていた。星瀬沙羅。華やかで、上品で、いつも美しい取り巻きに囲まれた沙羅は、同じ教室にいながら志生野からは遠い存在だった。永遠に交わらない平行線のはずだった。それなのに。

 沙羅のたどる線が、志生野の歩む線に近づきはじめる。

 テニスを選んだいつもの取り巻きから離れてひとり、沙羅は球技大会でバスケットボールを選ぶ。志生野と同じチームに入って志生野にパスをおくり続ける。足をくじいて試合に出られなくなり、負けてしまった自責に沈んで遅刻を繰り返すようになった沙羅をクラス委員として気にかけた志生野に、沙羅は目覚ましがわりの電話をかけてくれるようにと命じる。

 それもほどなく終わる。「もうけっこうよ」と言いって拒絶する。きまぐれなお姫様。移り気のご令嬢。花壇のサルビアを抜いて抱きかかえ、笑顔で志生野にかけより「おすそわけ」と言って1本を手渡し、走り去る。放課後の教室で志生野の席を占領して、「あなたはみんな好きなんだわ」と志生野に聞かせ、「私はだあれも好きじゃない」と静かに自分を弾じる。

 いじわるをされている。ふりまわされている。歩む線が重なって起こる瞬間の幸福と、すれ違いから生まれる罪悪感、虚脱感、嫌悪感。仲間たちと行くサマーキャンプの帰りに、別荘へ来ないかと誘ってきた沙羅をいつもの気まぐれと思い、抱かされた負の感情をぶつけた志生野に沙羅が見せた目が暗い目が、志生野の心をふるわせ、キャンプ帰りの足を別荘へと向けさせた。そして。

 ひぐらしの鳴く森の中で、雪の降り積もる光景を、桜の花びらの舞い落ちる風景を幸せだと感じる少女たちの魂が、むき出しになって交歓する。

 同じ魂を持ちながらも、志生野は誰をも慈しむことで誰からも慈しまれる存在として、日々を平穏に生き、沙羅は誰からも愛しく思われながら、誰をも拒絶してひとり殻のなかに閉じこもる。同じなのに違ってしまった2人の少女が出会い、惹かれあってそして、それぞれに明日を歩み始める物語が、内田善美の「ひぐらしの森」(集英社、360円)に描かれる。

 63ページと長くはない1編のなかで、沙羅の志生野に対する態度はめまぐるしく変わり、志生野の沙羅に対する感情も揺れ動く。沙羅や志生野をかたちづくる繊細で美麗な筆致、時に表情をアップで大きく見せ、時に細かいコマ割によってテンポを出す構成も、激しく変化する感情と関係の移り変わりを、巧みにあらわす。

 読み手もそんな起伏に振り回され、不安ととまどいを覚えたまま、ひぐらしの鳴く森の別荘へと引っ張っていかれる。

 だからこそ、そこで明かされる沙羅の切なる思いが強く響いて全身を打つ。似たものどうしのなれ合いと退けるべきなのか。欠けた心の片方にようやくめぐり会えたと受け入れるべきなのか。本当の思いを内にかくして取り繕いながら生きてきたり、頑なさの殻に閉じこもって生きてきた人たちの、いつの間にかむきだしにされた魂に鋭い矢が突き刺さる。

 15歳の最後の夏に重なった、志生野と沙羅の生の軌跡は夏の終わりとともに離れ、ふたたび交わることなく時は過ぎていく。永遠に重なることはなかったのか。それは描かれない。けれども人から思われ、人を思う気持ちがぶつかりあって生まれた奇蹟のような一夜は、志生野が体のまわりにはりめぐらせたベールを消し、沙羅の心をおおっていた殻を割った。15歳の最後の夏の経験は、2人の少女の歩みを進ませ、心を外へと向かわせた。

 15歳の今をとまどう少女たち、そして歳も男女もとわない大勢の迷いに身をすくめている者たちに、「ひぐらしの森」は語りかける。分かりあいましょう。臆病にならないで。心を向けあいましょう。逃げださずに。志生野と沙羅の重なりあった生の軌跡に生まれた輝きを、身に刻んでさあ、生きていきましょううと呼びかける。

 そのメッセージを、手に取り感じられる機会を今いちど、わたしたちにもたらしてくださいと切に、願う。降り積もる雪が作る真っ白な景色を見て、上等な気分でふとんにもぐりこめると感じられる優しい人たちが、後に大勢続いてくれる日がふたたび訪れることを心から、願う。  


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