左手に告げるなかれ
 駅まで3分という便利なところに住んでいながら、時に不便さを覚えるのは、歩いて3分以内のところにコンビニエンスストアがないからだ。5年ほど前に今のアパートに越して来たときには、目と鼻の先に輝く光を放つコンビニエンスストアが鎮座ましましていたが、敷地の持ち主であろう大手百貨店が、別館をその敷地に建てることになったとかで、店を閉めてしまった。

 気が付くと夜中の2時、3時。小腹が空いたのに冷蔵庫の中にあるのは冷や麦つゆと卵パック(中身はない)と固まったオリーブオイル、製氷室には2か月前から凍ったままのロックアイスしか残っていない。これではいかな料理の鉄人といえども、人間の口に合う料理は作れまい。仕方なくジーンズをはき、ゴムゾーリを突っかけてペタペタとコンビニに向かって、不夜城の輝く光に身を委ねる。

 しかし徒歩3分以内のコンビニが消え失せた今は、あの光に身を委ねることもなくなった。自転車を駆れば、3以内に5軒は下らないコンビニのどこにでもたどり着けるのに、よほどの欲求がない限りは、自転車でコンビニに乗り付けることはしない。広い家に住んでいれば、3分歩いて冷蔵庫にまでたどり着くことはあるが、いくら広い家でも、自転車に3分乗って冷蔵庫まで向かうことはしない。広い家に住んだことがなく定かではないが、人間の心理とは、まあそんなものだ。

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 それにしても、コンビニほど謎に満ちた商店はない。24時間、365日開いているコンビニのオーナーは、いったいいつ休みを取っているのだろうか。いつも店内は商品であふれているのに、スーパーのように大型のトラックが乗り付けて商品を下ろしている姿はあまり見ない。レジには謎のボタンがあって、商品を買う購買者の年齢層をしっかりと打ち込んでいるという。1万円札はすべてダストシュートで地下の金庫へと吸い込まれる? これは初めて聞いた。渡辺容子の「左手に告げるなかれ」(講談社、1500円)に出てくる描写だが、コンビニについて密な取材をした上で作品を仕上げた作者のことだ。おそらくどこかのコンビニで実施しているか、実施する計画があるのだろう。

 といっても、「左手に告げるなかれ」はコンビニ版「スーパーの女」では全くない。主人公の八木薔子(しょうこ)は警備会社に勤務し、スーパーやデパートなどに派遣されて万引きを捕まえる「保安士」という仕事をしている。もともとは一流証券会社で総合職として働いていが、不倫相手だった上司の妻が、会社に密会の写真を送りつけたことから会社を辞めざるを得なくなり、流転の果てに「保安士」の職を得た。

 ある日、スーパーで仕事に就いていた薔子を刑事が訪ねてくる。薔子が証券会社を辞める原因となった不倫相手の妻が、自宅のマンションで何者かに殺されたのだという。恨みを持つものとして八木は当然のことながらリストアップされている。おまけに不倫相手の妻は、死に際に自分の血で「みぎ手」というメッセージを残していた。右手に万引き犯を捕縛する際にもらった傷跡のある薔子は、かけられた嫌疑を晴らすために、自ら調査に乗り出すことになる。

 調査が進むにつれて、主婦と仲の悪かった女性が経営するコンビニエンスストアをはじめ、同じ地域にある同じコンビニエンスストアを監督する本部の社員が、次々と謎の死をとげていたことが明らかになってくる。やがてクローズアップされてくるコンビニエンス会社の経営者と、その親会社にあたるスーパーの創始者との暗闘の構図。主婦は企業の代理戦争のとばっちりを受けたのか。それとももっと別の真相が隠されているのか。

 不倫相手の元上司、事件をいっしょに調べることになった探偵、薔子と同じように殺された主婦によってマンションを出る羽目となった一家の不思議な家族関係。様々な人物が織りなす錯綜した人間関係をときほぐした果てに見えてきたものは、愛を渇望して得られず、ねじ曲がってしまった哀しい人の心だった。

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 先のコンビニエンスストアの経営に関する描写をはじめ、「保安士」「探偵」「追っかけ」などなど、様々な職業に関するリアリティーあふれた描写によって、小説の世界が現実の社会のように見えてくる。登場人物たちの奥行きのある性格設定にも、ただ感嘆するよりほかにない。刑事が訪ねて来たあと、1件も万引きを上げられずにいる薔子を叱咤し、犯人探しへと向かわせる上司、坂東指令長の強烈な個性は、過去のどんなミステリーの脇役たちに勝るとも劣らない。殺された主婦が、ただただ自分を飾りたてようとして取った行動の数々にも、それを奇異なもの、異様なものとして受けとめさせないだけの心理分析がなされていて、虚飾の世の中に生きるわれわれの心をチクリと刺す。

 盛り込まれた膨大な情報を、ただ情報として提示するのではなく、ストーリーの中に巧みに折り込み、場面展開や会話によってさりげなく提示してみせる腕前の鮮やかさよ。過去にジュニアノベルの書き手として場数を踏み、中間小説誌の新人賞も獲得したことのある作者の、蓄えられた経験が存分に活かされている。

 それにしても、薔子の不倫相手となった元上司の情けないことといったら。女房と別れることができず、薔子を捨てたのに、今また薔子と再開すると、自分の家族を殺されたという恨みではなく、薔子への思慕のような感情から、犯人探しを手伝うような男。薔子に坂東にコンビニの女オーナーなど、強い女たちが大勢登場するなかに混じると、そのひ弱さがいっそう目立つ。

 収入が途絶えるなかで、通帳をながめ、パチンコ屋に通い、ひたすら小説を書き続けた作者のこと。なまはんかな男の強さなど、たちどころに見抜いてしまうというものだ。ハードボイルドが男の見栄としか見られなくなった時代にあって、これからも強い女が活躍する話をどんどんと発表し、強い女に憧れる女を喜ばせてくれるだろう。ひ弱になった男もそれを読むことで、必ずや有益な刺激を得ることになるだろう。


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