走って帰ろう!

 1980年頃の日本で、自転車レースと言えば真っ先に挙がるのが競輪で、「ツール・ド・フランス」や「ジロ・デ・イタリア」といったロードレースの存在を、知っている人はごくごく希だった。競輪ですらスーパースターの中野浩一が、世界スプリントで3連覇という偉業を達成したあたりから、少しづつその面白さが広まり始めた程度。トラックであれロードであれ、自転車レースの認知度そのものが全体的に低かった。

 それが今や「ツール・ド・フランス」と言えば、本国のフランスに巻けず劣らずこの日本で、夏のスポーツイベントの代表格として認められ、親しまれるようになっている。80年代末から90年代に入って、NHKやフジテレビでレースも模様が紹介されるようになったことで認知度がまず高まり、多チャンネル化で本国での放送がフルサイズの上に生中継で伝えられるようになって人気が爆発した。

 鍛え上げられた肉体を持つ男たちが単身で自転車を駆り疾走する。またがるのはハイテクノロジーの粋を集めた自転車たち。チームプレーの駆け引きがあれば、ライバルの選手同士が時に助け合う場面もあり。悠然と広がるフランスの大自然をバックに繰り広げられるそんなドラマに魅入られた人たちが、毎年7月の「ツール」開幕を待っている。「ジロ・デ・イタリア」の立場はどこにいった?

 ロードレースの競技がどういったルールの元で行われ、どんな感じで勝敗が決まるのか。どんな自転車に乗っているのか。そんな周辺の知識も、25年前とは比べものにならないくらいに広まっている。そんなバックグラウンドがある今、ロードレースを主題にしたライトノベルが生まれても何ら不思議はない。

 「ファミ通えんため大賞」を受賞した加藤聡の「走って帰ろう!」(ファミ通文庫、580円)は、蓄電した父親が残した借金を返すため、息子が有明埠頭で毎週日曜日に行われる「ドッグレース」と呼ばれる自転車のロードレースを走る羽目になるというストーリー。倉庫で夜ごとに繰り広げられる賭けボクシングやキャットファイトならいざ知らず、オープンな場所で果たして賭けレースが存在し得るのかがやや悩ましい。

 ただ狭平地が続き、道も広い割に日曜日ともなると車のほとんど入ってこない埠頭だったら、周回型のロードレースにはうってつけだ。そこを裏から手を回して借り切って、アングラな勢力がこっそりギャンブルレースを行う設定を、無茶と言ったら話が成立しないからひとまずスルーする。

 だったらロードレースがギャンブルになり得るかと言うと、これも悩ましいとところ。短い周回レースで参加するのは借金を抱えた者ばかり。協力し合うということがあり得ないため、チームを組んでアシストをしながら最終的な勝利を1人がつかみ、チームで山分けするロードレース的な名誉と金銭の分配は難しい。

 となると、いきおいスプリントレースになって、突出した力を持つ者が勝ち続けてしまって、ギャンブルにならない可能性が多々ある。実際に、参加している中で主人公の少年と意識し合う関係になった、ニックネームを「委員長」(眼鏡をかけているから)という女性のドッグレーサーは、賞金の出る着順には入っても優勝はほとんどできなかったりするから、競馬以上に人気が一部に偏ってしまい、なおかつ大穴も出にくい。

 けれども、そんな鉄板に近い状況を、ドーピング上等な裏レースならではのレギュレーションを入れ、整備されていない公道を使い行われるレースならではのアクシデントも盛り込むことで、1人が勝ち続けるのではなく、誰かが何かの弾みで勝つかもしれないという、ドキドキ感を醸し出すことには、とりあえず成功している。

 どれくらいのスピードで走っていて、残りの周回がどれくらいあるから、時速がどれくらい上がれば差はどれくらい縮まって、どこで追いつけるのかといった、自転車のロードレースを楽しむ上で知っておいて損のない視点も、しっかりと盛り込まれているのが偉いところ。勉強したのかそれとも元からロードレースが好きだったのか。自転車好きの人が読んでも、これなら納得できるだろう。

 リアのスプロケット、フロントのチェンリングのギア比のセッティングとか、クイックリレーズハブの形状とか、カチリとはめ込み外れなくするペダルの仕組みとかもちゃんとしている所を見ると、ロードレーサーについて元からそれなりに知っていたと考えるのが普通か。ドッグレーサーたちが駆るロードレーサーのメーカーも、トレックにビアンキにクラインとそれなりな所を出している。これがコルナゴにチネリにデ・ローザといった、有名で高級でもレース場面では今ひとつ活躍できないメーカーではない辺りも、昨今のレースを知っているからこそのセレクトか。

 レーサーの心理的な駆け引きもしっかりと描き込まれている。相手がどこで何を思いどう仕掛けて来るか。来たなら自分はどうするか。レーサーにしかわかり得ない心理に迫った描写は、読んでいるだけで自分が有明の埠頭を自転車にまたがり走っている気分にさせてくれる。レースを走る抱えた事情も様々な男たち女たちの、事情に応じた走りっぷりに騙しっぷりも見事。フィクションでありながら、ノンフィクションのスポーツルポルタージュを読んでいる感覚を味わえる。

 あのエンディングをあらかじめ主人公が用意していたのだとしたら、主人公がすべきことはたった一つで、これが最後というレースで他の参加者を思い迷うことなんてないのでは? といった疑問も浮かぶものの、途中にレース参加者から事故を食らわされる場面があり、またそれぞれのレーサーがそれぞれに抱えた事情にも触れてあるから、弱い心を抱え臨んで足がすくんでしまったと考えれば問題はなし。そんな葛藤を乗り越えるドラマとして読める。

 イラストについては可愛らしさに寄っていて、大借金を抱えた奴らによる非合法レースといった雰囲気からやや遠い。とはいえロードレーサーに詳しい寺田克也を仮に起用したとしたら、迫力はあってもライトなイメージからは遠ざかってしまう。寺田克也が描く「委員長」は、きっととてつもなしにグラマラスで、淫靡でパワフルな委員長になったかもしれない。それはそれで見てみたい気もするが。

 ともあれ貴重にして異色にして、それでいてストレートに楽しいストーリー。ライトノベルではなく普通に小説で出ても、楽しく読まれたかもしれない。次ぎに願うは実写映画化か。埠頭の青空に映えて疾駆する銀輪の群を、ラストの直線で傷つきながらもゴールを目指すドッグレーサーたちの表情を、巨大なスクリーンで見てみたい。


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