華札
はなふだ

 誰かを愛するというベクトルがあって、誰かから愛されるというベクトルがあって、それがピタリと向き合った時、愛する者と愛される者は幸せになれる。けれどもまるで別々の方向にベクトルが向いてしまった時、愛する者は嘆き苦しむ。愛される者は戸惑い悩む。

 だからといって諦めきれないのが愛するということ。捨て切れないのが愛されるということ。ばらばらな方向へと伸びた愛し愛されるベクトルの、いつか重なり合う時を求めてあがく、そんなものどもの姿が華麗な絵と端正な物語によってつづられたのが、OKAMAの「華札」(ワニマガジン、1500円)だ。

 時代はおそらくは平安あたり。桐姫という、鬼にさらわれた挙げ句に死んでしまった許嫁が忘れられず、ススキたなびく野原で捉えた狐を、桐姫と同じ姿に化けさせては交わろうした、”いずな”という烏帽子を被った貴族らしき男がいた。なぜそんなことを”いずな”はしたのか、という疑問から筆は過去へと戻り、いずなという貴族と桐姫との都での日々が描かれ、桐姫を慕っていた狐のエピソードへと続く。

 狐は桐姫に愛するというベクトルを向けていた。けれども桐姫から愛されるというベクトルは狐には向かっていなかった。苦悶しながらも狐は信じ込んでいた。”いずな”と桐姫は愛し合っているに違いないと。お互いの愛し愛されるベクトルがしっかりと向き合っていたということを。だからしでかしてしまった。とてつもないいことを。

 ところがそうではなかった。桐姫の想いが向かっていたのは”いずな”ではなかった。別の方向へと向いたベクトルを重ね合わせようとして、桐姫もまたとてつもないことをしでかしてしまう。そして再び現在。ススキの野原で桐姫の姿になって”いずな”と交わったことで、”いずな”を愛し慕うようになった狐と、桐姫をさらって殺したという鬼を探して仇を討とうとする”いずな”が山野をさすらうエピソードの果て、”いずな”と桐姫が過去にしでかしたことがらの結果が立ち現れ、いかに強い想いを込めても、向き合わなかったベクトルが決して重なり合わない残酷な様を浮かび上がらせる。

 時を行き来し、陰茎を異常にふくらませた大男を連れ歩く赤鬼と青鬼のエピソードもはさみつつ、狐と”いずな”、”いずな”と桐姫、桐姫と木彫り職人、木彫り職人と赤鬼青鬼といったキャラクターを玉突のように交錯させて、重ね合わせた構成の妙味にまずは感嘆する。そして、相手を想う自分の強い気持ちにこだわるあまり、相手の誰かを想う強い気持ちを無視して挙げ句、相手も自分も不幸へと追い込んでいってしまう、いきものどものあさましくも激しい恋慕の情ほとばしる物語に圧倒される。

 愛するというベクトルの向きを変え、愛されるというベクトルに重ね合わせようとした時すでに遅く、向いていた想いの力が変わってしまっていた場面、世のことがらのままならさに暗然とする。どうしてもっと早く努力をしなかったのかと憤り、けれどもそれができないからこその愛なのだろうと考える。それ故に愛はドラマになるのだ。

 絵の巧さではもはや他に比するものがない。そんな絵によって描かれる男女の交合の淫靡で幻想的な様もやはり他に類を見ない。スレンダーでコケティッシュな表情を持った美少女たちが、胸も下半身もあらわに男たちと交わる姿の何と淫らでうつくしいことか。それだけでも存分に情動を刺激されるところに来て、多層的で多感なドラマが必然としてついて来る。OKAMAの真骨頂ここにあり。傑作。愛し愛される喜びと苦しみを知る、すべての生きているものどもに捧げよう。


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