われはフランソワ

 運命、なんて誰かから与えられたものに諾々と従って生きるのはつまらない。諦観、なんて言葉から受ける潔さなんてたぶん単なる逃げでしかない。感情に逆らい、欲望を抑え、世を拗ね自分を偽って生きる姿を格好良い、美しいと思うなんて間違っている。自分に降り懸かるすべての事柄を、運命と受け入れず、諦観でそらさず、時には怒り、時には悲しみながらも正面からぶつかっていく方が、人間にとってより人間らしい生き方なんだということを、山之口洋の「われはフランソワ」(新潮社、1800円)は感じさせてくれる。

 主人公のフランソワとは、フランス文学史上で最高の抒情詩人と呼ばれているフランソワ・ヴィヨンのことを指す。パリ大学を出て、バラッドと呼ばれる形式の詩作でバリ中にその名を轟かせながらも、学生を煽動して大騒ぎした挙げ句、人を殺してしまってパリを出奔する羽目となり、流れていたところを盗賊の味に尻尾を捕まれ足抜けできなくなって、泥棒稼業に身を落としたのが運の尽き、ではなく新しい人生の始まりだった。

 泥棒でありながら表向きはそれを隠し、詩が好きだというオルレアン公シャルルの城に食客として居候するようになったフランソワは、その美しい妻マリー・ド・クレーヴにも気に入られ、やがて心も交わすようになる。城内で行われた詩の大会でも大喝采を浴びたフランソワだったが、盗賊の身ではそのまま逗留することも適わず、仲間に呼ばれ再び泥棒稼業へと身を投じる。

 行き当たりばったりの生活で、引っ張られ巻き込まれてにっちもさっちもいかなくなるようなタイプに見えるフランソワだが、それとて絶対に逃れられない運命のようなものではない。自分の意志で世間に逆らい、自分の欲望を露にしようとする強さがそこかしこにのぞく。そんな生き方の身軽な様が読んでいて実に目に心地よい。フランソワが世話になるオルレアン公シャルルが、自分の詩作に「無関心」というテーマを折り込み、実際に生きる上でも徹底して世を儚み世情に、政治に、権力に対して「無関心」を決め込んでいる大公との対比もあって、ますます羨ましい生き方に見えて来る。

 フランソワが生まれたという1431年は、神によって与えられた運命に従って戦ったジャンヌという名の1人の少女が、火あぶりになって死んだ年でもあった。幼い頃からその少女のことを聞かされて育ったヴィヨンが、蜂起した時ど同様に神から与えられた運命と受け入れ焼かれたジャンヌに、共感反感のどれを覚えたかは判らない。けれども父親から聞かされたジャンヌの話に、髑髏の形に燃え上がる顔、腹からはじけ出る煮えたぎった臓物を思い浮かべがフランソワが、美しき運命も、潔き諦めもそこに見たとは思えない。のたれ死んでも意思を貫き通す凄みを、人間が人間として生きやがれ死ぬ強さを感じたと思いたい。

 シャルルの城を出て放浪し、パリへと戻り罪を問われて絞首刑を宣告されたフランソワ。かろうじて罪一等を減じられてパリを放逐されたところで、歴史上の詩人としてのフランソワ・ヴィヨンという男は消えてしまう。だが著者は、そこに運命などではなく意志でもって世の中を突き進んでいく男の姿を描き出す。自分が何者だなんてお構いなしに、才能と感情の赴くまま生きていくフランソワの姿は、ともすれば自分探しに悩む主人公の生き方に共感を覚え、他人の人生に自分を重ね合わせて安心したいと安易に考えている人たちの目を、眩しさでそむけさせ羨望であふれさせるかもしれない。

 けれどもたとえ自分なんて見つけられなくとも、決して悩まず怯まず突き進むフランソワの、ピンチになりながらも試練とか、運命ではなく自業自得すなわち自分の意志が招いた結果で、破れるも勝ち進むも自分次第なんだと思わせてくれる生き様を読むにつけ、自分が何者かなんてことは実はどうでもよくなってくる。とにかく生きること、前へと進むことのの方が楽しいし、結果として自分を見つけることに繋がる可能性もあるんだってことが見えてくる。

 600年近くも昔に生きている人々の、実に生き生きとした姿、考え方、行動その他すべての描写の血の通い具合、肉の付き具合にはひたすらに感心する。むろんその想像力と描写力があったからこそ、残された詩作と伝えられた生涯から、この物語を織りあげられたのだろう。加えて驚くようフランソワ出生の秘密、さらに途中に挟まれるロマンスがもたらす結果への実に美しくも滑稽な様には、唐突とは感じながらも思わずニヤリとしてしまう。ロマンスとサスペンス、ユーモアとカタルシスにあふれた一級品のエンターテインメント。山周賞、直木賞、推協賞間違いなし。


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