Fandomania
charactor & cosplay

 長くとがった耳をつけて、ファンタジックに着飾った少女が横向きになった表紙を店頭で見た瞬間に何かを感じた。手に取ってふわふわとした手触りをした素材の表紙を開いて中を見て購入を決めた。それくらいに強いインパクトを持った写真集が、エレナ・ドルフマンという写真家による「Fandomania」(アパーチャー出版、35ドル)だ。

 以前にダッチワイフと暮らす大人たちの日常を撮影した「Still Lovers」という写真集を刊行したこともあるエレナ。こちらは日常に人造人間的な存在が入り込んだ様をとらえ、リアルとバーチャルが融合しかかっている世界の不思議さを浮かび上がらせてみせた。

 対して「Fandomania」という写真集では、外国人が日本のアニメやゲームに登場するキャラクターのコスチュームをまとった姿、すなわち外国人コスプレイヤーを撮影した内容。解釈するならリアルな人間がバーチャルなキャラクターと、接合を超えて一体に融合した様をコスプレイヤーに見てとらえ、「Still Lovers」からさらに進んだ世界の変化を写し取ろうとしたのと言えるかもしれない。

 もっともコスプレイヤーに慣れた日本人の目から見ると、そこにはもう一段、別の解釈もなりたちそう。黒いバックにコスプレイヤーが浮かぶアーティスティックなレイアウトは、コスプレという文化が華やかさだけではない深遠さを持つものとして、海外では受け止められている可能性を伺わせる。

 またコンテスト的な美麗さとは違った何かの基準によって選ばれたコスプレイヤーたちの佇まいは、自らの見目を気にすることなしに、このキャラクターになり切りたいと切望する真摯で熱烈で前向きなコスプレイヤー的意識を、外国人といえども持っているのだということを分からせる。

 似合っているとかどうとかではない、むしと傍目にはどうしたものかと想われるようなビジュアルのコスプレであればあるほど、キャラへの想いであり、作品への想いというものが浮かび上がり、にじみ出る。

 なるほどこれは「新世紀エヴァンゲリオン」のレイかもしれない。それは日本の最先端コスプレーヤーと造形的に比べ物にはならないけれど、敢えて選び敢えてしてみせたその心意気が感涙を誘う。なるほど「ガンダム」のシャアではなく「おたくのビデオ」の田中が扮したシャアである。体型からしてガンダムは無理。だがシャアが好き。ならばこうするしかなかったという判断なのか、それとも根っからの「おたくのビデオ」好きなのか。聞いてみたいが、聞くのが怖い。

 「ヘルシング」のセラスに扮した少女の、眼鏡をかけたままなで演じるいたいけさ。「ブギーポップは笑わない」のブギーポップに扮した少女の、これはなるほどと想わせる美少女ぶり。これらがコスプレとしての静の爽やかさなら、「撲殺天使ドクロちゃん」のドクロちゃんに扮した男の毒々しさは、コスプレが持つ動の凄さと言えそうだ。どうして外国人の男が「ドクロ」ちゃんを知っていて、扮装したいと想ったのかを、これは聞いてみたくなる。やっぱり答えが恐ろしいが。

 いずれにしても、どう見えるか、ではなくどうなりたいかが伝わってくるコスプレイヤーたち。客観より主観。それなくしてはコスプレは単なるコンテストになってしまう。彼ら、彼女たちは“分かって”いる。写真家にそこまでの意識があったかは不明だが、美麗さを基準としないコスプレイヤーたちをセレクトした時点で、外面よりの内面をこそ重んじる姿勢を理解、もしくは感じていたと考えても良さそうだ。

 女の子のコスプレーヤーに、眼鏡着用率が高いのは何か理由があるのだろうか。コスプレ文化の発達した日本における眼鏡萌えの要素が、コスプレにプラスアルファの効果をもたらすものと考えられ実践されたからなのか。単にコスプレを好む婦女子に眼鏡着用率が高いだけなのか。研究してみたいテーマではある。

 ほかにも見所がたっぷりとあり、突っ込みどころも満載の写真集がなぜに生まれたか、そしてどういう意義があるのかは、サブカルチャー批評で知られるカルロ・マコーミックが寄せている解説を読めば分かるのかもしれないが、長文の英語ゆえに浅学な人間にはなかなかの難物。ここを翻訳して日本の出版社が日本語版を是非にも刊行して欲しいものだ。無理ならば美術雑誌で抄訳でも。


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