絵巻物−アニメの源流
展覧会名:絵巻物−アニメの源流
会場:千葉市美術館
日時:1999年8月29日、9月4日
入場料:700円



 今月10日からスタジオジブリが主催して開いた、高畑勲監督の書いた本に趣旨を合わせて絵巻物とアニメーションとの関係を云々する展覧会に、高畑監督の講演が付いてたんで話題の人だったこともあり見に行く。話題ってのはアニメ「ホーホケキョとなりの山田くん」がいしいひさいちファン的にアレだったこと。まずは展示の方は「信貴山縁起」と「伴大納言」の2つの12世紀の絵巻を並べて「どーですアニメぽいでしょ」ってな本末転倒っぽい説明を付けて、アニメを日本の絵巻物で権威付けよーとする意図でもあるのかと穿ってちょっとだけ気が滅入る

 けれども2週にわたった講演会の1回目として、29日の午後の2時から始まった講演会では、最後の質疑応答の部分で12世紀の極めて限定された時代の貴族社会とゆー閉鎖的な空間で、それも「信貴山縁起」と「伴大納言」の2つについて顕著な現代の映像文化を髣髴とされるカット割りやらパンフォーカスやらカットバックといった手法を見出して、なんか似てるよねって言った程度に過ぎなかったことが判明。決して大勢ではないけれど1部には確実に日本人の血肉なり特殊な言語に依拠する部分があって、現代の日本に特徴的なアニメーションやマンガへと繋がってるんじゃないかって謙虚な話っぷりがあって、最初の穿った考えをやや改める。

 面白かったのは事前に配った「カリカチュア」に関する説明を列記したペーパーを踏まえ、その言葉にあるニュアンスとしての「風刺」なり「滑稽」といった「イヤ」な線での誇張とは違う、日本ならではの記号化が絵巻物なり浮世絵なり現代のマンガにはあるって点で、それが「カリカチュア」と何が違うかと言われると、実感がそこにはあって記号的で面白いけどリアルさも備えているってな点を主張してたのが強く印象に残る。

 例えば「ホーホケキョ となりの山田くん」で見せた、いしいひさいち的なデフォルメされたキャラながら、生活の実感をそこに持たせた絵に仕上げてみせた、とゆーよりもともとのいしいひさいちの絵にそれが存在したんだと言われる可能性もあるけれど、いたずらな風刺でも揶揄的な誇張でもない、実感を伴いながらも面白味のある絵巻に見られたキャラクターの姿こそが、高畑さんの言う「カリカチュア」ではない日本的な表現方法ってことなのかもしれない。

 質疑応答の時間では、「という見方なのか」と聞かれた問いには「あなたはそう思っているんでしょうがそれは1つでしかない」といった、断定はしないけれど独善を嫌う強い口調で反論していたのが印象的で、それはおそらく評論家なんかが成果物だけ見て断定を下す手法への、フクザツな感情を経た上での結果であるところの作品を、一方的に評価されることへの反発心がやはり強くあるからなのかもしれない。

 月が変わって9月4日は、前回が絵巻に見られる表現のアニメ的な部分に焦点を絞った内容だったとすると、今回は相手に「伴大納言絵巻」を所蔵する出光美術館の黒田泰三学芸員を迎えての絵巻に秘められた謎についての解説が中心。まずは黒田さんが通して絵巻を見せつつ、最大の謎とされている上巻の後半に登場する絵巻が流れる方向とは逆を向き屋根らしきものを遠望する男性が誰で、次に登場する縁側っぽい部分で中の2人の男たちの会話に耳そばだてる男性が誰なのかって点を、過去の所説も踏まえてあれこれ解説する。

 ここで高畑監督が注目したのは遠望されている屋根を焦点にして流れている霞で、男性の上部分にうっすらと残る柱らしき絵からどーやらこの男性は屋根を遠望しているんじゃなく、屋根からフキダシ状態に広がったスペースの中は実は屋根の下をクローズアップしたものでそこを男性は歩いて退席しよーとしているんだと分析し、故にこいつは讒言をして帰る伴大納言その人だと主張する。でもって縁側の人はまた別の藤原良相って人らしー。

 服装一緒で顔も似ている2人が異時同図じゃないってあたりは、2人の間に1枚失われた絵かあるいは文章があったってことが解った今は否定されるのが主流とか。ここで「屏風か何かにされてた時期があって邪魔だから切られた」って説とそれから「文章の部分に実は真犯人かもしれない藤原良房の犯行を臭わせる一文があって後に切られた」とゆー説が挙げられる。

 絵巻の主題となった応天門炎上から300年を経て描かれただけに、当時の権力構造とは違って藤原氏に媚びる必要もなく真犯人を示唆できる環境にあったってのが良房を犯人と類推させる文章があったって理由で、それが削られたのは再び後に権力基盤が揺れた時に権力に媚びる人がやったかどーかってことになるらしー。事実か否かは検証が必要だろーけど、何時の時代にも上にデラデラと媚びて歴史的な価値とか使命とかを無視どころは否定する輩が出るってのは変わらないのか。

 良房犯人説には別に絵巻が貴族の教育に使われたって背景から、指で頻繁に触られた可能性があってそこから見ると最後に牛車に載せられ引き立てられる伴大納言の服の塗料の落剥が目立つ以上に、宮中で天皇と会見する良房の服の塗料の落剥が目立つ。顔の部分が落ちてないところを見ると事故とかってことじゃないと解るから、これは教えている時に「犯人はコイツなんだぜ」って指して教えた名残なんじゃないかと黒田さんは言う。検証がこれもまだなんでハッキリしたことは言えないけど、聞いているだけで歴史の遠い向こう側に消えた謎の真相がうっすらと見えて来て気持ちがワクワクしてくる。これだから歴史ミステリーっていつの時代も大いに人気があるんだよね。

 絵巻がアニメ的かどうかも含めて一連の展示と講演を通じて見えて来たのは、高畑勲さんって時間の経過を伴う映像表現に主として携わる人間が、そのキャリアなり身につけた方法論で同じ時間の経過がそこに否応なく生じる絵巻とゆー表現形式の中から、同じ”映像作家”として当時の画家の意図を読みとり、結構な部分で成功しているんじゃないかって点。と同時に、無駄のほとんどない絵巻の意図をくみ取れるだけの厳密過ぎるくらいな理論を持って、すべてのシーンを高畑さんが映画の中に入れてるんじゃないかってことも思い浮かぶ。

 だとしたらあの冗長で説教臭い「ホーホケキョとなりの山田くん」のすべてのシーンに意図があるはず、と思うと何としてももう1度くらいはあの映画を見ておいて損はないかもと思えて来たけど、逆にいえばそーまで思わないと見る気力が起きないってことで、うーんなんか薮蛇。でもあと1度くらいなら見てもいーかな、あの一途な思いを込めて訥々と喋る高畑さんの人柄に免じて。




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