越境者 松田優作

 炎が吹き上がるように改造したライターで髪の毛の先を焦がしたり、腹にあてた手のひらをじっと見て「なんじゃあ、こりゃあ!」と山口弁で叫んだ人は読むしかない。読んでその格好良さに惚れ直し、今の不在を嘆くのだ。

 不世出にして空前絶後の俳優として、映画やテレビで輝きを放ちながらも1989年年10月、ガンで死去した松田優作の生い立ちから結婚、俳優としての活躍、そして壮絶な死までをたどったノンフィクション「越境者 松田優作」(新潮社、1600円)が登場した。

 書き手は人気ノンフィクション作家であり、他にこれ以上の適任はいないだろう松田美智子、つまりは最初の妻。俳優の金子信雄が運営していた演劇の学校で出会い、不遜な態度で金子信雄の逆鱗に触れて追い出された優作といっしょに退出。その後、優作は文学座に入って俳優になり、美智子はアルバイトをしつつ支えてそして栄光をつかむ。

 「太陽にほえろ!」へのゲスト出演から始まり、映画「狼の紋章」を経て「太陽にほえろ!」であのジーパン刑事を演じて人気を獲得。「大都会・闘いの日々」から「大都会・PART2」、そして「探偵物語」「人間の証明」「蘇る金狼」「野獣死べし」と、歴史に残り記憶に刻まれる作品に出て出続け、人気を絶大なものとした。

 シンデレラボーイ。野生のカタマリのような男に使う言葉ではないけれど、まさに一瞬にしてスターの座へと駆け上った。けれどもその裏側には、演技にかける他の誰よりも熱心で強烈な想いがあった。

 演技のためにはあらゆるものを犠牲にできる覚悟があった。だからいい加減な奴、成長しない奴が大嫌いで、助監督でも容赦なく殴り、親友であっても共に高みを目指そうとしない奴とは縁を切って罵倒した。

 理解しあった人間でも徹底して議論した。脚本家の丸山昇一は、優作が死んだと聞いた瞬間に、解放感からガッツポーズをしたという。書いては破られ、怒られ、諭された日々が多大なプレッシャーとなって丸山昇一の神経にのしかかっていた。その重しがとれて心が緩み、思わずガッツポーズが出た。

 けれども程なく丸山昇一は気づく。優作のプレッシャーは重しとして丸山昇一を沈めるためのものではなく、ともに高みへと登るための叱咤であったことに。だから優作の葬儀の時、突っ伏して泣き、気が付くとパチンコ屋根いたという。記憶を失ってしまうほどに、優作を喪ってしまった悲しみが丸山昇一を空っぽにさせた。

 日常生活にも妥協は許さず、妻であっても容赦はしない。レモンの切り方が間違っていると、臨月で苦しむ美智子を怒鳴りつけた。そんな彼でも、娘が誕生してしばらくは父親として優しい顔を見せいてた。むしろ人一倍に娘に気を遣った。「探偵物語」で出会った美由紀に惚れて美智子を置き家を出てからも、優作は娘に誕生日のプレゼントを贈っていた。

 別れても姓は変えるなと美智子に言ったのも、娘の為を思ってのこと。そんな娘に別れの言葉を継げないまま、優作が逝くはずがない。演じ続けるためには一切の妥協を許さず、死の直前まで次の仕事のことを話していた優作が、瞬間の栄光に殉じるようなはずがない。「ブラック・レイン」の撮影にガンの進行を承知でのぞみ、死期を悟った鬼気迫る演技で誰をも圧倒し、そして芸に殉じたのだという一般に流布している見解を、だから美智子は否定する。

 入院していた病院の医師、水谷豊や桃井かおりといった無名時代からの俳優仲間たちへの取材を通して、優作が自分の病魔をそれほどまでに深刻なものとは認識していなかったこと、だから治ると信じ、これから先も演じ続けるのだという前向きな気持ちで、死の間際までいたことを感じさせる。

 もしも優作がすべてを熟知し、引くべきは引いて治療に専念していたとしたら、今なおスクリーンを、テレビの中を飛び回る彼の姿が見られたのかもしれない。少なくともあと数作の傑作を、見られたに違いない。

 出生への懊悩。母親への複雑な気持ち。妻や子供たちへの愛情。末期に見せた宗教への関心。過去のクロニクルには描かれていなかった松田優作の姿が、死去して20年を経た今に浮かび上がる。そして、日本映画復活と言われながらも、彼ほどの圧倒的な存在感を放つ俳優なんて誰もいない現実に、改めて思いを及ばせ、残された者たちに奮起をうながす。

 読めばもう格好なんてまねていられない。まねるならその生き様、情熱、そして奥深く果てしない無限の愛、だ。


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