永遠の森 博物館惑星

 「理屈」と「直観」のどちらが物事を評価する時に正しい物差しとなるのだろうか。小説だったらキャラクター、ストーリー、語り口、中には装丁までもを含めてそれぞれを理論で測った上で点数を付ける行為と、キャラクターもストーリーも文体も装丁は最初から無視してただ1点、語られているテーマがどれだけ心にびんびんと来たかで是非を問う行為の、果たしてどちらが正しい読み方なのかといった切り口になる。

 音楽でも同様。旋律が、和音が、テクニックがといった理屈をこねる前に、ただ一言、「俺の歌を聴け」と叫んでねじふせるような音楽に惹かれる方が、音楽との正しい接し方なのかどうか、考えてはいるが結論は出ない。和音やテクニックは音楽の心地よさに絶対とは言えないまでも必要なパーツであって、それらの集合体は結果として良い音楽に仕上がっている可能性があるのだから。

 絵画の場合はどうだろう。色彩、構図、テクニック、モチーフetc。理屈によって構成された絵画の良し悪しを判断するための材料には事欠かない。あるいは優れた評論家のお墨付きであったり、取引された値段といったさらにプラスアルファの理屈が上に載る場合もある。絵画という芸術の真価は理屈によって相当な部分まで判断できる、と言って良いのだろう。そこには「綺麗」という、曖昧模糊とした直観が入り込む余地などなさそうだ。

 だが、それで良いのだろうか。色彩にしても構図にしてもテクニックやモチーフのどれだって、それが「綺麗」だという直観の積み重ねによって理屈になったのではないのか。問題は、直観の積み重ねられた理屈それ自体を権威として尊び、さらに理屈を上乗せすることに終始して、本来人間が「綺麗」な物を見出していた直観を省みようとしなくなったこと、なのだ。

 惑星の軌道上へと引っ張って来られた小惑星に作り上げられた、世界中の古今の芸術作品を収納するための巨大博物館「アフロディーテ」。そこで働く当代随一の学芸員たちが日々出逢う芸術に関する様々な事件を描いた連作短編集「永遠の森 博物館惑星」(菅浩江、早川書房、1900円)で語られるのも、「理屈」と「直観」、そのいずれが美の本質に迫っているのかという、人間が美を愛で始めて以来付きまとっている深さと広さを持った命題だ。

 「天上の調べ聞きうる者」。無名の作曲家が脳神経科で治療の一貫として描いた絵に、同じ病院に治療に訪れた世界的な美術評論家が「音楽が聴こえる」と感銘を受けて大いに評価したことから、その絵をめぐって「アフロディーテ」に持ち込むべきか、それとも病院で絵を見て涙を流している一部の人たちのために残すべきかが問われる。理論的には凡庸以下の日曜画家の手慰みでも、ある種の人たちには至高の芸術として位置付けられる。いったいどちらが正しいのか。

 活躍する学芸員は、主人公の田代孝弘を筆頭に、誰もが恐ろしいまでに膨大な美術品、芸術品に対する知識を保有していて、その判断によって上がって来る作品の美を審査する。知識があるのも道理で、彼等は古今東西の芸術に関した知識を蓄積したデータベースと実質的につながっていて、自由に好きな時にデータベースへとアクセスして、膨大な情報から容易に必要な情報を引き出すことができるのだった。

 けれども時間が経過するに連れ、蓄えられた知識によって判断することへの懐疑も生まれてくる。代わって登場して来たのが、人間の直観、すなわち「感動」を新しいデータとして蓄積していけないか、といった考え方。表題作の「永遠の森」では、田代よりずっと若い学芸員に内蔵された、直観をデータベース側に返すことが出来る仕組みが実際に試みられようとする。

 粘菌や音向性変形菌といったバイオの力を組み込んだ、一種のオルゴールにも似て音やタイミングに応じて人形が踊ったり舞台が変化する「バイオ・クロック」をめぐって、誤解によって激しい憎悪にまみれてしまった男と女の想いが救われる様を描いている点で、「永遠の森」が短編として優れたSFであることは確かだし、「天上の調べ聞きうる者」も「この子はだあれ」も、脳医学だったり超常的な能力者と通常能力者との誤解と理解といった、SF的なガジェットやテーマが繰り出され、楽しめる。

 それでも、9編を通して読んだ時にわき上がるのは、見事に1本、筋の通った「ラブストーリー」ぶりだ。エリート学芸員の証ともいえる接続者として、また絵画・工芸と音楽・舞台と動・植物の3部門から成る博物館の部門に頻繁に起こる収蔵品の所属をめぐった争いを調停する「アポロン」に所属する者として、忙しい毎日を送っている孝弘は、新婚間もない妻の美和子を愛しつつも甘えて省みず、次第にぎくしゃくとした関係になっていく。美和子は孝弘と同じ学芸員になると行って地球へと戻ってしまう。

 見えて来るのは典型的な夫婦の破局のパターンだが、しかし最後の「ラヴ・ソング」に至って孝弘の慢心を越える純粋な愛の姿が立ち現れて、読む人を感動へと追い込む。と同時に、9編を通して奏でられて来た「理屈」と「直観」とのどちらが正しいのかという争いに1つの決着が付けられて、読み人に美を接する時の態度を教えてくれる。

 冒頭の「天上の調べ聞きうる者」から度々出てくる、「アテナ」と「ミューズ」と「デメテル」のいずれもが理屈をこねて自分たちの手元に起きたがったピアノ「九十七鍵の黒天使」が、最後の「ラヴ・ソング」でたどる運命もまた、永遠に「保存」された美として留まることよりも、その瞬間に「綺麗」であることの方が価値として至高なのだということを教えてくれる。



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