同人誌バカ一代 〜イワえもんが残したもの〜

 岩田次夫についてほとんど知らない。世界でも有数の同人誌コレクターというのが一般的な、いや漫画同人誌業界的な認識らしいが、漫画は読んでも同人誌をほとんど読んでこなかった身にはその凄さが分からなかった。

 関わりのある漫画関係者、同人誌関係者によれば、世界最大規模の同人誌即売会「コミックマーケット」に初期から関わり、多くの老舗同人誌発行者とは顔なじみで、なおかつ新しく林立して来たほとんどの同人誌即売会にも足繁く通って、新しい同人たちとも交流を持ってその中で、欲しい同人誌を手に入れ気に入らない同人誌に意見を言う、ご意見番的な存在であったという。あるいはヌシとも。

 通称「イワえもん」と呼ばれた、その岩田次夫が2004年春に死去したと聞いた。果たしてその膨大なコレクションがどこへ収められたのか、興味も及んだがそんな彼が実は、優れた評論家であったことを、遺稿集「同人誌バカ一代 〜イワえもんが残したもの〜」(久保書店、1200円)によって知った。

 表紙のフィギュアをガレージキットの原型師として轟く浅井真紀が作っていることにも驚かされたが、その背景にずらりと、そして整然と書棚に並べられた同人誌の数にとにかく激しく驚かされた。長年のコレクター生活から類推すれば、持てるコレクションのおそらくは1%にも満たない数でしかない冊数。なれどその整頓ぶりからは、どこまでも果てしなく漫画同人誌を大切にし、溺愛していたんだなということが伺える。

 同人誌というものが存在することは、1980年代の初頭から認識はしていた。けれども本格的に買い漁ったことはなく、ましてや作った経験もないため「同人誌バカ一代」に書かれている、岩田次夫が同人業界に向けて発した提言なり、苦言というものを外面的な同人誌の知識から理解できても、体感として了解し我が身のこととして受け止めることが出来ないのが残念といえば残念だ。

 例えば権利関係の問題について、ともすれば権利者側の論理に立ちがちな一般人としての認識に対して、同人誌を作る側、買う側の見解とうものがあるのだということが、「同人誌バカ一代」からは伺えて勉強になる。もっっともそこを一方的に作る側の論理で押し切るのではなく、一方で権利者側の存在といったものにちゃんと思いをめぐらせ、文章にして綴っているところが、彼が社会人として世とつながりを持っていた、大人の同人誌ファンだったと分からせる。

 同人誌についての見解とは別に、「同人誌バカ一代」には岩田次夫がしたためた漫画評論も幾つか収録されている。同人誌コレクターとしての岩田次夫とはまるで接触がなかったが、これらの漫画評論とは過去に接触していた可能性が極めて高い。

 執筆停止から20余年が経って、今や幻になってしまった漫画家の内田善美による名作にして傑作、「星の時計のLiddell」を論評した「星の時計のLiddell あるいは時間と空間の冒険」という文章。これは漫画情報誌の「ぱふ」が1986年に出した「増刊ぱふ Vol.2 特集・内田善美」に寄せられたものだが、明確な記憶はないものの時期、内田善美に強く惹かれていたためこの増刊を買っている可能性が極めて高い。当然にして論文も読んでいると思われる。

 同人誌方面での面識は皆無でも、そうした趣味の一致を通して18年も昔にイワえもんと実はすれ違っていたのかと、そう考えると途端に故人への関心も深くなる。内田善美について何かを語る人に、悪い人はおらず苦手な嫌いな人はいない。なればイワえもんが悪人であるはずはなく、むしろ強い親近感をもってその生涯を追認したくなって来る。

 さすがにそこまでの関心は抱けなくても、今はほとんど読むことの出来なくなった内田善美へのまとまった批評が読めるだけで「同人誌バカ一代」には価値がある。なおかつ2004年の「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」で「OTAKU:人格=空間=都市」という展示の中、世界に日本の建築空間を象徴するものとして紹介された同人誌即売会の、外面的な形ではなく内面的な意義を深く知る上で、重要な意味を持った本と言える。

 長く同人誌を読み続け、強く同人誌の未来を晋治続けたエキスパートならではの視線を持った、数ある中で優れたものをピックアップして書いた同人誌評まで収録されて、1200円という値段は破格にして別格。コミックマーケットなり同人誌即売会の歴史を知る文章は、こうした方面に関心を抱くビジネス関係者にとってガイドとも成り得る。

 版元も大きくはなく、置いてある書店も少なく、表紙も決して目立つものではないが、ひとつの時代を切り取りこれからの時代を伺わせる、歴史的にも文化的にも社会的にも芸術的にも、そして何よりオタク的にも重要な1冊。興味のあるなしに関わらず、探し見つけて買っておけ、と言ってておこう。


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