ドラゴン殺し

 姿形は似ていても、日本や中国の「龍」と西洋の「ドラゴン」は、あまりにも違う存在のような気がします。日本人にとって「龍」は、水神とされて崇め奉られる存在ですし、中国でも「龍」は、皇帝だけが使うことを許された、力を象徴する存在です。けれども西洋の「ドラゴン」は、王女をさらった、村人を喰ったといっては騎士によって退治される、忌み嫌われる存在です。

 メディアワークスの電撃文庫として刊行されたアンソロジー「ドラゴン殺し」には、そんな洋の東西における認識の違いを逆手に取った、そこはかとないおかしさを感じさせて、そして最後にホロリとさせられる、荒俣宏さんの秀作短編が収められています。「ヴェネツィアの龍使い」と題されたその短編は、元の皇帝フビライに使えていた龍使いの劉英と、当時元の都、大都に滞在していた「東方見聞録」で知られるマルコ・ポーロが主人公ですが、フビライに「西洋と東洋とで、龍のあつかい方がまるでちがう」と聞かれた2人の答えが、「龍」と「ドラゴン」の違いを、実に端的に説明してくれています。

 マルコは「西の龍も東の龍も、その本性に相違はなく、共通しておる、ということでございましょう」と言います。「龍は生命エネルギーのシンボルなのでございます。そこで人間は、この生命エネルギーを発散する神獣をとらえ、そのエネルギーをいただくことを考えつきました」と、人間が龍を求めて止まない理由を説明します。

 けれども「東洋では、龍のもつ生命エネルギーを、吐きださせる」のに対して、「西洋のドラコは、生命の血をもって」いて、血を飲んでエネルギーを取るには龍を殺すしかない、故に東洋には劉英のような「龍使い」がいるのに、西洋には「龍殺し」しかいないのだと、そう解き明かします。

 短編自体は、殺して殺して殺しまくったが故に、残り少なくなってしまった最後の龍から、生きたまま生命エネルギーを得るために、マルコがフビライに許可を貰って劉英をヴェネツィアに連れ帰り、龍にあい見(まみ)えさせる方向へと進んで行きます。凶暴さでは人後に落ちない西洋の「ドラゴン」ですから、「龍使い」の技もなかなか通用しませんが、龍の生態を知りつくした劉英ですから、東洋の龍と同じく西洋のドラコも、大切にしている宝を盗まれるのを嫌うと考えて、龍のねぐらへと向かい、意外なものを発見したところで、短編は幕を閉じます。

 文中、吐く息の違いから、東洋の龍を冷血動物で、西洋の龍を温血動物ではないかと指摘する場面も出てきます。龍を神獣とあがめ怪獣と恐れていた時代の人にしては、冷静沈着な分析というか、冗談めかしたもの言いのような気がしますし、そういった会話を交わす劉英とマルコの立場は、間接的に説話を伝える狂言回しのようにも見えます。

 もっとも、「あとがき」で荒俣さんが書いているように、この短編が、「龍」と「ドラゴン」の扱われ方の違いをまず明確にし、それから西洋で「ドラゴン」がいなくなってしまった理由を問い直そうとした「寓話」であることを考えれば、こうした文体、キャラクターを採用した意味も解ります。逆にこうした文体、キャラクターだからこそ、「寓話」が示すメッセージを分かり易く伝えることができるのだと思います。

 「ドラゴン殺し」というアンソロジーが、果たして「ドラゴン殺し」という確定したテーマをあらかじめ提示して、短編を依頼したものなのかは解りませんが、仮にそうだとすると、「ドラゴン殺し」というテーマから「どうしてドラゴンを殺すのか」、そして「東洋にはドラゴンに似た龍がいるが、誰も殺そうとはしない」「その違いはなんなのだろうか」と考えを広げていった荒俣さんの柔軟な思考と、その思考を作品として昇華させ得る知識には、いつもながら感心させられます。

 アンソロジーに収められた他の4人の作家の4本の短編は、「寓話」こそ狙ってはいませんが、それぞれに「ドラゴン」という素材をストレートに、あるいはちょっと想像を膨らませて調理して、それぞれの「ドラゴン殺し」の「物語」を創造しています。なかでも1番ストレートな「ドラゴン」の物語を提示したのは、鳥海永行さんの「黄金龍の息吹」です。物語は金鉱を護る龍との戦いなのですが、そこに金鉱山をめぐる人々の姿を絡め、最後に龍より恐ろしい人間の欲心の結果を示してくれています。

 平安の王朝を舞台にした伝奇小説の書き手である小沢章友さんは、「ドラゴン殺し」の舞台にやはり日本を選びました。日本ですから登場するのは「ドラゴン」ではなく「龍」ですが、その「龍」が、たんに神獣、水神の類ではなく、人の心に潜む情念の象徴のように描かれている点が、新鮮に映りました。

 中村うさぎさんは、ヴァーチャルとリアルのはざまに棲む龍の「親殺し」の物語を描きました。山本弘さんは、ターザンのようにジャングルに住む少年ティムの物語の1編として、古来から営々と行き続けて来た「龍」と、その「龍」を狩ろうとする人間の欲心との対立とを絡めて描き出しました。怪人まで多種多様な人たちのラインアップに、正直読む前は、出来に格差が生じるのではないかと心配していましたが、それぞれに工夫された「龍」を見せてくれて、結構楽しめました。

 米田仁士さん、安彦良和さん、山田章宏さん、天野喜孝さんとイラストレーターも1流どころばかりです。けれども素晴らしいイラストレーターたちを差し置いて、物語として楽しめ、寓話として強いメッセージを放つ、珠玉という言葉が決して大袈裟でない短編たちを収めたアンソロジーの表紙絵が、赤井孝美さんの美少女剣士というのは、どうでしょうか。

 赤井さんのファンで赤井さんの絵を1枚でも多く見たいという気持ちがある一方で、そんな心理につけ込んだ出版社側の意図が見え、つけ込まれた心の疚しさを感じて、少し居心地の悪い思いを味わいます。もっとも、本は読まれなければただの屑ですから、まず手に取ってもらい、中の短編たちを読んでもらって、それから各作家さんの別の作品へと読者を広げる道標として、赤井さんの表紙絵は十分過ぎるほどの役割を果たしています。ここは素直に、編集者の勝利を讃えましょう。
積ん読パラダイスへ戻る