THE DOOMSPELL
レイチェルと滅びの呪文

 例えば「ルパン三世 カリオストロの城」。カリオストロ侯爵の支配をのがれて自由になったクラリスには、偽札づくりに手を染めて来たカリオストロ公国への批判を一身に浴び、偽札という切り札を失って周辺の大国に干渉とも戦いながら、一生を捧げるだろう苦しい日々が待ち受けている。

 あるいは「もののけ姫」。シシ神の暴走を止めタタラ場の人々と山に暮らすサンとの間ととりもったアシタカの活躍に溜飲は下げたけれど、自らにかけられた呪いの解けないアシタカを待ち受ける生涯は決して平坦であるはずがない。はたまた「紅の豚」。活躍が一転しての敗北となった果ての逆転というドラマに人は酔った。けれども移ろう時代の中で居場所を失うだろうことは確実の古い戦闘機乗り、ポルコ・ロッソのその後を想像するだに身が縮む。

 そして「千と千尋の物語」。映画のパンフレットの中で宮崎駿監督自らが「実は切ない話なんです」というように、ヒロインで神隠しの世界で大活躍した千尋を待ち受ける現実は果てしなくノーマルなものだろう。映画では選ばれたヒーローでありヒロインであっても、映画のエンディングロールの後に続く時間の中では、どこにでもいる一人の人間に戻らざるを得ない。

 もちろん映画では、そういった”その後”は描かれない。見終わった瞬間に想像することも少ない。ただひたすらに良い話を見たなあ、と感じるだけだろう。それでも宮崎アニメの多くは、映画の中に描き出した幻想の世界にヒーローやヒロインを耽溺させず、しっかりとケリを付けている点にある、と思う。

 見た人は映画の幻想を引きずることなく、幻想に溺れっぱなしになることもなく、劇場を出た瞬間に映画とは別の世界、すなわちこの現実を認識し立ち向かっていくことができる。2時間なりで勝負する映画の、それが特質でもあり宮崎監督ならではの親切でもあるのだろう。

 同じように異世界に遊ぶファンタジックな物語でも、小説になると続編、続々編といったものが幅を効かせるようになり、またそれが普通のように考えられているのは何故だろうか。映画のように劇場に縛り付け2時間なりで決着をつけるメディアと違い、いつでも入り込めいつでも出られる小説では、無理に読者を元の世界へと戻す”儀式”を必要としないからなのかもしれない。が、多くは続編ならば売れるだろうという色気が作者にも出版社にもり、且つ読み手の方も同じ世界観でずっと楽しめて嬉しいんだという理由があることなのだろう。

 「ハリー・ポッター」シリーズの爆発的なヒットを受けるように(柳の下の泥鰌とも言うが)、続々と海外の子供向けファンタジーが刊行されて、ファンには嬉しい状況が続いているが、そんな1冊として刊行されたと思われるクリフ・マクニッシュの「レイチェルと滅びの呪文」(金原瑞人訳、理論社、1400円)も、これ1冊で一応の完結は見ていても、伏線があり続編が予定されていて、シリーズとして何度もファンタジックな世界に読者を誘おうとしている。

 宮崎監督だったら逃避を助長すると非難するかもしれないし、実際に読み終えれば待っているのは否応のない現実だったりして、読者はそれを戦っていかなくてはならないのだけれど、続編が予定されていると知れば、それまでの間を頑張ろうという気も起きて来る。3年4年をかける映画と違って早ければ1年どころか半年で、2の矢3の矢を繰り出して読む人を幻想の世界へと引っぱり込める小説には、何度でも幻想へと誘うことが許されているのかもしれない。

 さて「レイチェルと滅びの呪文」。地下室に突然開いた穴からどこか別の場所へと連れて行かれてしまったレイチェルという名の少女とその弟が、ドラウェナという魔女によって自分も魔女にされようとして、それは嫌だと何故か使えた魔法を駆使して戦うストーリーで、少女が異世界へと連れ込まれ魔女(映画では湯婆婆)と戦う「千と千尋の神隠し」との共通点もいっぱいあって、比べてみると面白い。まあ「オズの魔法使い」の昔から「天空のエスカフローネ」「爆熱時空MAZE」ほか、ファンタジーでもアニメでも異世界で戦う少女の物語は定番中の定番だから、そのバリエーションに過ぎないのかもしれないが。

 もっともレイチェルに課せられる運命は他になく苛烈。最初にレイチェルはドラウェナという魔女の完全なる影響下に入れられ、自らも魔女としてその星を支配する運命を求められる。続いてドラウェナに支配されている住民たちから救世主扱いされ、自身も心を支配されることを嫌ってドラウェナとのちょっとやそっとでは勝てそうもない戦いに身を投じる羽目となる。

 ドラウェナによって人々が次々と殺害されていく展開は、映画のようなビジュアル性は薄いもののそれなりの衝撃を子供たちに与える。赤い肌で目は刺青で縁取られていて口は蛇のように歪んでいて、口には歯が4組もあってそのまわりには蜘蛛がうごめいているというドラウェナの描写もただただ恐ろしい。そんな姿にさせられようとしているレイチェルの運命を想像するだに恐怖が湧き起こる。もっともそうした変身が自身のドラウェナにも匹敵するという力の裏返しだったという展開には、「正体見たり枯れ尾花」の故事を思い出しつつ恐怖心に脅える人間の弱さとレイチェルの持つ力の凄さが感じられて、読んでなかなかに感心する。

 一応の決着を見た本作には、宮崎アニメと違って”その後”のストーリーがすでに準備されているそうで、現実世界(といっても小説世界ではあるけれど)まで追いかけて来る幻想世界の脅威に、読者はしばらく惑溺できそう。魔法を覚えた主人公のレイチェルが隔絶された魔法の世界から現実の世界へと戻って繰り広げるバトルの果たしでどんな描写になっているのかもに興味がそそられる。そもそもどうしてレイチェルが魔女に並ぶ力の持ち主だったのかも、そうした中できっと納得のいく理由が語られるだろうと期待したい。

 作者のクリフ・マクニシュは1962年生まれの英国人でIT関係の仕事に従事しながら、娘のレイチェルに頼まれて本作を書き上げたとのこと。自らが父親の筆でヒロインとなって活躍する物語を読んで、現実と幻想との折り合いをどうつけているのか知りたい気がする。親の意子知らずで案外とドライに幻想は幻想、現実は現実と割り切ってキャッキャと楽しんでいるのかもしれないが。


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