どぶがわ

 50歳近くになっても独り者で、狭いワンルームのアパートを玄関まで本やDVDやフィギュアで埋め尽くしてより狭くしつつ、かろうじて確保したベッドの上で、両側に積まれた本やDVDが崩れ落ちてくる恐怖に怯えながら、枕元にある本を時々に手にとって読んでは眠る人間に、それほど遠くない日にやって来るだろう独居老人としての日々。

 何をして過ごしているのだろう。何を考えて生きているのだろう。何もしていないかもしれないし、何か考えすぎているのかもしれない。周囲に邪険にされ、あるいは誰にも相手をされないまま、ひとり起居して1日を過ごし、やがて訪れた夜に眠るだけの毎日。それはとても寂しいものに違いない。

 違う、そうではない、たとえ身の回りに何もなくても、誰もいなくても日々はどれだけだって充実したものにできるのかもしれないと、池辺葵の漫画「どぶがわ」(秋田書店、619円)を読んで思わされる。

 アパートに独りで暮らす老女の日々は、布団と調理器具と食器と掃除道具くらいしかない部屋で、夜は枕元に並べた童話やファンタジーを手にとって読んでは夢の世界へと浸り、朝になれば近所を流れる川の側に置かれたベンチに腰掛け妄想の世界へと心を遊ばせる。

 低地を流れて悪臭が漂い出し、近所を歩く人たちの鼻をつまませるような“どぶがわ”側に腰掛けながらも老女が浮かべる妄想は、メイドに傅かれ家族に囲まれ美味しい食事をとったりお茶を飲んだりといった優雅な暮らし。けれども部屋に戻ればアボガドすら食べられず、もやしと豆腐だけの食事をして床に就く。

 そんな日々の繰り返しは寂しいものなのか。それとも満ち足りたものなのか。他にやるべきことはなく、願うこともない身にとって、日々がしっかりと送れていることは、それで十分に幸せなのかもしれない。ただ、本人が感じる寂しさなり喜ばしさとは別に、老女の存在自体が周囲にささやかだけれど幸せをもたらしていることの方が、生きていく上で重要なことなのかもしれないと思わせる。

 周囲を行き交う人たちから見れば妙なおばあさんで、通学路を行く子供は川から漂ってくる臭気が嫌だと役所に文句を言い、ベンチも取り払って綺麗にしてくれと訴える。もっとも、そう言い続けた文句が成長するに連れてだんだんと変わっていく。きっかけは老女。その言葉に触れ毎日を静かに送る姿に触れるうちに、少年はささやかでも居場所があることの大切さを、その身に感じるようになっていく。

 クレームを受け続けて来た役所の公務員も、老女の存在がちょっとだけ日々を変える。長い生活から生まれたギャップから妻との関係がギクシャクしていた公務員だけれど、老女のふりまく風のようなものがその妻に伝わり、公務員にも届いて2人の関係を改め治す。

 ある少年は親の離婚もあって将来を嘱望された部活を辞め、一戸建ての家を出て老女と同じアパートの別の部屋に暮らすようになって彼女の日々に触れる。やはり同じアパートで暮らす青年は、レンズ磨きの仕事に毎日精を込めて取り組み、それが世界で認められたことにささやかな喜びを感じつつ、老女が口ずさむ歌に心を解れさせる。

 社会の片隅で、あるいは底辺で慎ましく生きる人たちの日々が繕われ、癒されていくストーリーが読む人の心をも静かに解かす。

 どぶがわの臭いに以前は文句ばかり言っていた少年は、ある雨の日に傘を持って立ち寄ったベンチで老女の隣に座り、そこで彼女から「これからいろんな景色が見られるなあ」と言われる。

 少年を励まそうとしたものなのか? だたっぷりとある少年の余命を羨ましがったものなのか? どちらとも言えないし、そのどちらかもしれないけれど、少年はそこに感じ取った。末路へと向かう臭気のような苦しさではなく、未来から漂ってくる香気が誘う可能性というものを。少年はそそこに辿り着こうと決意する。

 狭い部屋に寝起きし、粗末な食事をして数冊の本を繰り返し読む老女の暮らしを、幸福だと普通の人はなかなか思えない。そうなることへの恐怖すら感じてしまうだろう。だからといって、物質が周囲に堆く積まれていても、それを手に取る心の余裕、たっぷりの時間がなければ意味がない。

 自分が自由になる時間で、自分の自由な妄想によって世界を歩み、そこで幸せな気分に浸ることの方があるいは、人間にとっての幸福なのかもしれない。そんな幸福を老女が感じていたからこそ、周囲もそのおこぼれに与ったのかもしれない。

 老女が去りしあの町は、もうギクシャクすることはなく、静かにそして確実に歩んでいくだろう。未来へ。そういう存在になれることが、もしかしたら人間にとって最高の幸せなのかもしれない。


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