ダスクストーリィ−黄昏物語−

 視えなくて良かったって思う。何がってユーレイのこと。だってほら、生命がこの地球に誕生して、いったいどれだけの生命がこれまで生まれて死んでを繰り返して来たって思う? 生きてる人間だけで60億人を超えるんだから、死んだ人間の数だけでも兆や京の単位じゃきかないだろう。そんな大量のユーレイが視えたとしたら、目の前どころか体の中にだって繰り込んでる、クタクタになってたりボロボロになってたりするユーレイを、今この瞬間にだって感じてなきゃいけないだろう。

 6畳ひと間の部屋にギュウギュウ詰めになったユーレイ、なんて想像するだけて気分が悪くなりそうだけど、視える人の話がときどきテレビなんかで流れているのを見ると、せいぜいが地下道の中とか廃墟になった病院とか見通しの悪いカーブとか弾劾絶壁とか、そういう場所くらいでしか視えないようだから、何兆何京の死んでいった人たちはほとんどが、立派に昇天成仏消滅転生しているってことなるんだろう。それならちょっと安心、いまこの瞬間に周りをいっぱいのユーレイさんが取り囲んでるんだなんて、想像してちょっと重くなった肩を横目で見たりしなくっても良いからね。

 でもときどきは、視えたら良いなって思う時もある。どんどんと昇天成仏消滅転生していくなかで、取り残されたまんま視える人に視られているユーレイは、つまりそれだけ何かに執着してるってことだよね。恨みかもしれないし願望かもしれない。どっちにしても強い想いがそこにある訳で、けれども視えない人はどうあってもその想いを聞いてあげて、かなえてあげることができない。

 もちろん時には筋違いの恨みや理不尽な願いもあるだろうけど、本当に辛く哀しい想いを抱えたままで、この世に止まり続けなければならないユーレイたちに何もしれあげられないって事が、ときどき寂しく思えて来る。「ダスクストーリィ 黄昏物語 1」(TONO、集英社、750円)に出てくる日系人の少年、タクトのように聞いてあげ、かなえてあげられたらと思う。勇気はちょっといりそうだけど。

 タクトは決して視えることを喜んではいない。ピクニックに行った5歳の時、草原に立って小屋を指さす哀しそうな表情をした女の人を視て、小屋をあけてそこにあった切り刻まれた女の死体を見つけて以来、何を視てもかかわりたくないって気持ちを持っている。でも世の中には視えない人が圧倒的に多いからなんだろう、視えるタクトをユーレイたちが頼るのか、視える自分の役割をどうしても意識してしまうのか、ユーレイたちの想いにタクトはついつい答えてしまう。

 ある動物園では逃げ出して射殺された像と、その責任を感じて衰弱死んでしまった飼育係の残された想いを見届けてあげるし、同じ動物園に残ったままになっていたトラの想いを解放してあげる。長かった「人生」という仕事を追えた女性が住み慣れた家へと戻って来て、これから始まる休暇をサンタモニカで過ごすんだと楽しそうに(でもホントに楽しかったのかな)話す言葉を聞いてあげる。池に落ちて死んでしまった少年が飼っていた猫の想いを感じてあげる。

 娘が溺れて死んだ泉に鉄の柵で蓋をしてしまった老人の所へと行ったのは、視えるタクトを頼って小さい頃から現れ続けた、乾いた子鹿のために角を折ってまで蓋をこじ開けようとして果たせなかった親鹿の想いを伝えるためだった。ほんとうに、視えることを嫌だ、視えたって関わるものかと心底思っていたんだったら、こんなことは出来はしない。視えるってことには、辛いこともあるけれど、良いことだってある。だからこそタクトは、口では嫌だと良いながらも、視えることを厭わず視えることから逃げ出さず、想いを真正面から受け止めようとする。

 視えない人はだったら何も出来ないのかというと、決してそんなことはない。タクトのクラスメートで、前にタクトから両親の離婚に悩んでいた時期に心が強く想っていたハワイの景色を視られてしまい、どうにか立ち直った少年ラトルが作り出す想念の楽園に、ある時1人のユーレイが紛れ込んでいたことがあった。あたたかい風や緑の香りに惹かれたユーレイに、最初タクトは嫌悪を覚えてラトルに気を付けろと助言する。自分が5歳の時に視た草原に佇む女の人の実体を知った思い出を引き合いにして、ユーレイの想いになんか構うなと言う。

 けれどもラトルはこう考える。「その子が/おれのジャングルの中にいるのなら/せめて」。そんな想いによって湧き出た泉、さえずる小鳥、ほころぶ花と実を結ぶ果実の中で、両目をつぶされ暴力によって腫れ上がった顔をしたガリガリで傷だらけだった子供のユーレイが、微笑みを浮かべた少女の姿へと変わって行く。相変わらずラトルには視えないままだけど、そのことを知るだけでラトルはきっと満足だっただろう。そんなラトルの気持ちに振れて、タクトも逃げようとしていた自分を改める。「幽霊が見える…なんてね、ラトル、ちっとも……おそろしい事なんかじゃないさ」。

 視えたら良いとは思うけど、視えなくっても出来ることがある。想いを汲み上げる気持ちがありさえすれば、タクトのようにユーレイたちを救ってあげられるんだと気付かせてくれる優しい物語たちに触れることができて、今は有り難うと言いたい。美少年美少女を描く絵の巧みさだけでなく、暖かさにあふれた物語を紡ぎ出してくれる「ダスクストーリィ」のこれからを、いっぱいの期待を込めて見て行きたい。


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