ちゅうしるろう
厨師流浪

 「食べる」とはどういうことだろう。美味しい物に感動すること? それは真理。どうやら味覚は人間に顕著な感覚らしい。だったら「食」にこだわることは、人間の快楽であると同時に権利でもあり、また義務でもある。しかし根本はやはり「生きる」こと、だろう。なぜなら人間は食べなければ生きていけない。それが美味しかったら嬉しいけれど、美味しくなくてもやはり食べる。食べることで生きている。

 ならば「生きる」とはどういうことだろう。「食べる」こと、では多分ない。遊ぶこと、働くこと、考えること、眠ること。そんなたくさんの「生きる」ことの中に「食べる」ことも入ってしまう。昔の人も言っていた。「人間はパンのみに生くるにあらず」。「食べる」ことは「生きる」ことの従ではあっても、決して主にはなり得ない。

 それでもやはり「生きる」ことの上で「食べる」ことの意味は大きい。遊ばなくても働かなくても考えなくても(眠りは必要だけど)人間は生きていける。けれでも食べなかったら死んでしまう。従ではあっても主にピタリと寄り添った、あるいは「生」と裏表の関係にある「食」だからこそ、人間はそこに何かを求めようとする。ならばその何かとは? 答えの一端を、加藤文の書いたノンフィクション・ノベル「厨師流浪」(日本経済新聞社、1800円)で見つけられたような気がする。

 主人公は日中戦争前の中国に生まれ、太平洋戦争後に日本へと渡り、古くから中国に伝わる「薬膳」の店を出して成功をおさめた劉道義という厨師(料理人)。実は生まれながらの厨師ではなく、長沙の富豪の嫡子としてゆくゆくは家業の薬種店を継ぐだろうと見られていた。ところが道義には母親の違う兄がいた。道義を生んで没するまで、長く不妊を疑われていた劉家の正妻に代わって、跡継ぎを残すために招かれた妾が生んだのが兄・任晴公。彼がいたことが、嫡子でありながら道義の立場を微妙な物にしていた。

 本来は生まれて来るはずのなかった自分の存在が、本来は嫡子となるはずだった兄とその母を脅かしてる。正統ではあっても、どこか疚しさがつきまとう身ゆえに、道義は父親の後を継ぐ意欲を持てなかった。

 そんな道義に、なぜか備わっていたのが料理の才能だった。頂き物のセロリを抜群の感性で家付きの厨師より巧みに仕上げてしまう腕前は、最初は厨師の嫉妬を買う。けれども道義の作った饅頭が道議を決して快く思っていない妾に「母は幸せ者です」と言わせたことに、「食」がもたらす「生」に及ぼす効能の1つを見て、厨師は道義に料理を教えるようになる。

 一瞬の効能もすべのわだかまりを氷解させた訳ではなく、道義は劉家に自分の居場所を見つけられず、ヤクザの関わる賭場へと入り浸り、そこで相当額の借金をこしらえる。返済に困り、家の倉庫にある高貴な薬をヤクザに盗ませ弁済することになってしまったのが悲劇のはじまり。押し入った続は別の事件で因縁のあった道義の兄、晴公を廃人同然にし、その母を殺害してしまった。

 痛烈な自責の念と恐怖にかかれた道義は家を出奔。今日の食べ物にも事欠く乞食同然の身なりで、戦争が続いている中国を流浪する、その行く先々で出逢った人たちとの交流の中で、道義は「食べる」ことと「生きる」ことの関係に気づいていく。

 一例が今晩にも子供を捨てようとしていいた一家に道義がありあわせの材料を使って粥を作ってあげたエピソード。豪華な食材なんか使ってなく、量だってわずかな1杯の粥が、たとえ過酷な「生」であっても一家にそろって生きていく勇気をもたらした。

 さらに流浪の果てにたどり着いた街で、道義は評判を取っていた薬膳料理の店に下働きとして入ることになる。一級の腕前を持つ厨師の道義が、下働きでも良いから雇って欲しいと思ったのも、繰り返し襲った困難の果てに、飢えからの脱出だけでも快楽の探求だけでもない、「生きる」ために「食べ」ようとしている人のことを考えて作る「薬膳」の魅力に惹かれたから。そこでもさらなる危機が道義を襲うことになるのだが、後は読んでのお楽しみとしておこう。

 身分を重んじ家柄と尊ぶ中国の家族制度の複雑さから始まって、長い歴史と広大な土地を持つ中国に相応しい多彩な種類の料理、軍閥が幅を利かせて日本軍、国民東軍、共産党軍が入り乱れた戦中の中国大陸の錯綜した関係を見事なまでに活写した識力にはただただ感嘆。そんなバックグラウンドの上で繰り広げられる、1人の少年が家に悩み、罪悪感に苦しんだ挙げ句に、自分とは、食とは、生きるとは何かをつかむまでを描ききった、そのストーリーテリングの巧みさにとにかく驚く。

 中国での波瀾万丈なエピソードのすべてが事実ではないそうだが、少なくとも日本に伝えられた「薬膳」が、貴人に弄ばれる料理にはなっても、すべての人に希望を与える料理にはならなかったことは事実だろう。じっさい多くの人が「薬膳」と聞いて思い浮かぶ印象は、苦かったり不味かったりする薬種でも薬なのだからと割り切って食べる料理、というものだ。

 実在する「薬膳」の伝来者が、料理が遊びとなり、優越感をもたらす道具となり果てている、この飽食・日本の現状をどう思っているのかを考えると、胸がチクリと痛む。だからこそ「厨師流浪」を読み、そこに描かれた生きるために必死で食べた人たちの姿に触れ、食べることで生きる意味を知った人たちの気持ちを思うことで、「生きる」ことと「食べる」ことの関係を探ってみたい。生きるために食べるためにそれほど必死にならなくても良い飽食・日本に生まれた者の、それは義務であり権利であり、また快楽でもあるのだから。


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