チョコレートの町

 名古屋市を抱えていても、愛知県は相当に田舎の県で、というより名古屋市自体が大都市でも何でもなく、名古屋駅を出て少し岐阜方面へと向かっただけで、線路の両脇から家並みは消えて、田圃や畑が広がる中に民家があったり、工場があったり、鉄塔が建ち並んでいたりするような光景になってしまう。

 静岡方面に走っても、鳴海あたりの桶狭間に近い丘陵部を抜けると、やはり広がる田圃や畑に、立ち並ぶ工場。その良く言えば自然が多く、悪く言うならうらぶれた地域を故郷として過ごした上で、東京近郊のどこまでもビルが続き、丘陵部にもびっしりと民家が建ち並ぶ光景を見ると、故郷がどうにも疎ましく思えてしまう。若い頃は。

 飛鳥井千砂の「チョコレートの町」(双葉社、1600円)の主人公、早瀬遼という青年も、そんな心境にとらわれていたのだろうか。作者の出身地から想像するに、N市すなわち名古屋市からすこし離れた場所にあって、全国規模の菓子メーカーの工場がある町、というから安城市あたりだろうか、そこに育って、漂ってくるチョコレートの匂いに嫌悪感を覚え、都会に出て大学を卒業し、そのまま就職してしまった遼。今は滅多に帰京もしないで、不動産の仲介などを業務にしている会社の、神奈川県にある営業所の所長となり、仕事に励んでいた。

 その遼が、帰省シーズンでも戻ろうとしなかった故郷に、帰らざるを得なくなる。実家のそばにある営業所の店長が女性問題を起こし、謹慎させる必要が出て、それをカバーするために、店長の資格もあって、実家に近く土地勘があるという理由から、遼が臨時の臨時の店長として派遣されることになった。

 駅を降り立つと、相変わらずチョコレート工場からは甘い香が漂いだして鼻孔をくすぐり、心をもやもやとさせる。子どもの頃から威張りちらしていた、地元の有力企業の子息の息子が、務める営業所の所長が起こした事件の関係者と知って謝りに出向き、下げたくない頭を下げさせられたことも、地元への悪い印象を強くする。

 こんな自体にも出会う。学校の同級生で、仕事の都合で東京へと出ていくことが決まった青年には、つきあっている彼女がいて、けれどものその彼女の友人が、裏側で彼女を地元の引き留めようと動き回っていたことを知る。

 外に出ようとして出られない自分の悩みを、他人も巻き込みはらそうとしていいた、同級生の彼女の友人。出たい。けれども出られない。田舎の社会につきものの、そんな束縛を浮かび上がらせ、田舎に生まれ、そこに暮らすということの重さを浮かび上がらせる。

 ところが、かつての同級生や、昔の彼女と再会したり、近所にある製紙工場に勤める父、主婦をやっている母、近所の自動車部品工場に勤め、子持ちの女性と結婚しようと考えている兄といった、地元で普通に暮らしている家族と会話する中で、遼はだんだんと田舎の人間関係や光景が、悪いものではないと思うようになっていく。

 この感情の変化は、どうして起こったのか。想像するなら、若くてあらゆる可能性を夢見ていて、それなのに地元の居心地の良さに溺れかかって、出ようという気力がなかなか出ず、それならば地元を嫌いになれば良い、そうすれば振り返らずに出ていけるといった、心理状態がかつては働いていたのだろう。

 それが、改めて地元の居心地の良さに触れたこと、そして、都会での暮らしに不安や不満も見え始めていたことが、地元への無理矢理の反抗心を覆して、真っ直ぐに見られるようにしたのだろう。住めば都。ましてや育った街が、心底嫌いなはずはないのだから。

 もっとも、だからといって外の世間を見てしまったことで、地元べったりになれないところも遼にはあった。チョコレート工場が、地元の印刷会社に出していた仕事を打ち切った時、地元から強い反発が起こった。遼はそこに理不尽さを感じ、割って入って窘めようとした。

 古くからのしがらみを気にしつつ、縛られない客観性をそこに入れ込むことで、田舎の良さと難しさの両面を描いて見せた。「チョコレートの町」は、そんな融和と理解の物語なのかもしれない。

 実家に暮らして、近所の工場なり役場に仕事に通って、5時過ぎには仕事を終えて帰宅して、それから仲間と集まり、飲みに出かけたり、寝たり遊んだりする暮らしは、なかなかに楽で良い。都会に暮らして、朝から夜遅くまでいろいろなことをやっても、いったい何の足しになるのだろうか。そう思い始めている人に、ここに描かれた田舎の暮らしは甘く香る。

 もっとも、遼はそれでも都会を選び、彼女を選んで戻っていく。仕事があり、伴侶がいて、認めてくれる人たちがいさえすれば、そこは常に都なのだ。悩み、迷い、後ろを向くより、受け入れ、認め、前を向く。それができさえすれば、どこにいたってそこは都で、ないかつ故郷も愛すべき場所になる。

 東京へと戻るとき、遼は「帰る」とは言わなかった。「戻る」だけで、「帰る」のは故郷だと認めた。ここに生まれたちょっぴりの変化。多くの場所を見て、大勢の人と出会って得られた経験から出てくる寛容と慈愛の心が感じられる。

 迷っていては、後ろを向いていれば得られないこの気持ちを得るために、留まっている人は外に出て、外にこだわっている人は故郷へと、帰ってみてはどうだろう。


積ん読パラダイスへ戻る