キャットフード

 冷や飯に味噌汁をぶっかけた、続に言う「猫まんま」が果たして本当に猫が好む食べ物かどうかは分からない。魚っ気はせいぜいが出汁の煮干しくらいしかない餌が、本来は肉食らしい猫の口にはとても合うとは思えないが、だからと行って缶の中に詰め込まれた肉や魚のペースト、あるいは小さい粒状に練り固められた肉や魚のエッセンスも、同様に「猫まんま」とは呼びたくない。

 まあ、確かに売る方も買う方も上品に「キャットフード」と呼んで、味噌汁飯の「猫まんま」とは区別している節はあるし、ペーストだったり粒状だったりしても一応は肉食の猫が好む肉や魚のなれの果て。ならば「キャットフード」を正統にして正当な「猫まんま」と位置付けるのが、正しい考え方なのかもしれない。

 だが本当にそうなのか。ネズミをとり雀をとり、檻の中のハムスターをとり篭の中の文鳥をとり、地中からはモグラ、草むらからは蛇をとってはその鋭い爪で引き裂き、尖った歯でかみ砕いて食べていた猫を人間が都合で飼いならし、寄せ集めた肉や魚をすり潰して固めてついでに栄養素やら保存料やらを混ぜ合わせ、工場で生産した「キャットフード」は、「猫まんま」以上に猫にとって正しい食べ物なのか。

 キャットフードを食べている猫を見ていると安心するという女性が説明する、「正しくないのに、正しいことをしてるみたに見えてくるから」という理由は、人間の都合ばかりが前面に立った振る舞いの、どこかに漂ういかがわしさ、尊大さを浮かび上がらせているようには見えないか。世の中を、自分たちの都合の良いように動かすために、他のなにものをも気に止めない人間たちのあさましさ、狡猾さを言い当てているようには感じないか。

 須藤晃のタイトルもそのままに「キャットフード」(リトル・モア、1700円)が描こうとしているものは、我侭勝手に自分だけの都合で世の中のすべてを動かそうと企んだ男の、いかがわしく、尊大で、あさましく、狡猾な姿だ。そして同時に、決して正しいふるまいではないのに、柵で、圧力で、欲望で、その他さまざまな理由を付けて正しいことをしているつもりになって、罪悪感を押し殺して生きていかざるを得ない人間への挑発だ。

 1人は少年。就職もせずふらふらとその日ぐらしを続けていた彼は、ふとしたきっかけで知り合った芸能人の女性からギターを盗み出してくれと頼まれる。行った先で何者かに殴られた少年は、自分をスターにしようとする男の計画の手駒として使われ始めたことに気づくが、逃げられず、言うなりになって面識のない女性にキスをしたり、海外へと逃亡して額に白い星形の痣を入れたりする。

 もう1人は敏腕プロデューサー。数々のヒット曲を手がけて食べるにまったく困らない生活をしていた彼は、飲食店を経営しながら音楽プロダクションも運営している男から預けられた、全員が帰国子女という触れ込みの4人組のプロデュースを依頼される。リーダーらしいベスという女性と街を歩いていた彼は、路地に現れた少年が突然ベスにキスをして逃げ去る姿を目撃する。

 スターにしてやるからという囁きに振り回される少年のエピソードと、マスコミを操作してまでベスを売ろうとするプロダクションに振り回される敏腕プロデューサーのエピソード。交互に繰り返される間をベスがつなぎ、是が非でもスターを作り出したい男が放つ、他のすべてを犠牲にしてでも願いをかなえようとする妄執から逃げ出して、自分の足で歩きはじめようと足掻くスター志望の少年とプロデューサーのドラマが幕を開ける。

 是が非でもスターを自分の手で作りたかった男の過去や、ベスとの関係がつまびらかにされていくうちに、非情でも身勝手でもない、人間ならではの感情が見えて来。猫に出来合いの「キャットフード」を与えるよりは、はるかに正しさを説明できる理由が見えて胸が詰まる。それでも巻き込まれた周囲にとっては、理不尽であり我侭で自己中心的な振る舞いでしかないところが、人間の悲しくも愚かしい本性を現していてやるせない。

 浜田省吾、尾崎豊を手がけた音楽プロデューサーであり、虚々実々の駆け引きをこなしてスターを送り出す芸能界の中核に居て今も居続けている著者だけあって、芸能界という名の架空の王国の描写はどこか生々しい。テレビをひねれば「キャットフード」を食べさせられ、太らされ踊らされた「猫」たちの顔が次々に映っては消えて行く。

 幸せかい。不幸せかい。答えられない猫は黙々と「キャットフード」を食べ続ける。口があっても答えることなく人間も「キャットフード」を食べ散らかす。野生はまだどこかにあるのだろうか。野生は取り戻せるのだろうか。答えは、まだ見えて来ない。


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