ブレードランナー2

BLADERUNNER2


 既視感のなかにいる。スピナーに乗って砂漠の果てへと逃亡していった、デッカードとレイチェルの行く末に思いを馳せていたこの何年間。映画を見るモニターに映し出された、暗号のようなシーンのひとつひとつが頭のなかで絡み合い、増殖され、導き出された書かれざるストーリーが、今、現実となって目の前にある。

 「ブレードランナー2 レプリカントの墓標」(早川書房、1800円)。フィリップ・K・ディックの申し子ともいえる、K・W・ジーターによって書かれた、映画「ブレードランナー」の続編にあたるこの作品を手に取る時、人はおそらく、眩暈にも似た感覚にとらわれるだろう。初めて接するストーリーのそこかしこに、どこかで見たようなシーンがフラッシュバックのように現れる。それはたぶん、知らず知らずのうちに自分のなかで組み立てられていたシーンに出会ったからだ。こうあるべきだと思っていた、そのとおりのシーンが現れたからだ。

 LAからデッカードとレイチェルが逃亡して1年。オレゴンの山小屋で、崩壊していく生命を少しでも延ばそうと、棺桶にも似た装置のなかにはいって眠り続けるレイチェルと共に、デッカードはささやかだけれど幸福な生活を送っていた。そこにある日、レイチェルと同じ顔かたちをした女性が舞い降りて、デッカードに新しい仕事を命じた。タイレル・コーポレーションの総帥で、レプリカントのロイ・バティによって殺されたエルドン・タイレルの姪にあたり、レイチェルの原型(テンプラント)にもなったサラ・タイレルがデッカードに伝えたのは、逃亡したネクサス6型レプリカントが、デッカードたちが始末した5体だけではなく、もう1体残っていているという話だった。

 サラの命令を呑んでLAに舞い戻ったデッカードは、自分が殺したはずの女レプリカントが、実は人間だったという可能性を知らされる。一方、デッカードの同僚で、腕利きブレードランナーだったが瀕死の重傷を負ったデイヴ・ホールデンが、入院中の病院から連れ去られて内蔵を機械に置き換えられる治療を受け、デッカードを追いつめる役目を追わされる。その役目を言い渡した男こそ、デッカードが死闘の末に倒したレプリカント、ロイ・バティだった・・・・。

 逃亡した6番目のネクサス6型レプリカントの行方をめぐって、サラ、デッカード、ホールデン、そしてバティたちの思惑が交錯する。誰が人間で誰が人間ではないのか。もしかしたら誰も人間ではないのではないか。猜疑心に満たされたキャラクターたちの心は、決して晴れることのないまま、混沌のラストシーンへと向かって突き進んでいく。

 他人と自分の距離を測ることが、どんどんと下手になっていく現代人にとって、自分以外の存在がレプリカントであっても、あるいは藁でできた案山子であっても、あまり関係がなくなっている。自分の問いかけに反応し、相手の問いかけに自分が反応していく、その繰り返しによって、事は大過なく進んでいく。それこそコンピューターに蓄積された膨大なデータによって、それらしい反応を見せるティディ・ベアが1頭、向かいの腰掛けに座っていたとしても。

 そんな世のなかだからこそ、フィリップ・K・ディックが「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」だけでなく、「にせもの」や「変種第2号」などで繰り返し問いかけてきた、自分の存在への疑問を持ち、相手の存在にも疑問を持つことが、増長する猜疑心というネガティブな要素を持っていてもなお、重要なことのように思えてくる。ディック亡きあと、そうした存在への疑問をえぐり出してくれる作家は現れなかった。ただ1人、日本の神林長平を除いて。ディックの嫡子、ジーターの「孝行」に、今は素直に賞賛を贈ろう。

 ジーターの「ブレードランナー2」は、ディックが重ねて問い続けて来た命題を引き継いではいるが、本質的にはリドリー・スコットの映画「ブレードランナー」の続編であり、時折火を吹き上げるタワーの上を、亀にも似た鈍重な格好のスピナーが飛び交う描写からも、映画の映像を意識していることが如実に伝わって来る。本の帯には「映画化決定」とある以上は、すでに監督やキャストも決まっているのだろうが、もし夢がかなうのだとしたら、そちらの映像版「ブレードランナー2」でも、心地よい既視感を味わいたいものだ。


積ん読パラダイスへ戻る