僕僕先生

 宇宙人や未来人や超能力者を探す女子高生なんて、人間である分まだ普通。17歳で魔王になったり天使なのに撲殺したりと、超が幾つも付くくらいに個性的なキャラクターが多いライトノベルの世界だったら、「美少女の仙人」なんて珍しくもなんともない。

 そんなキャラクターが仮に出てきたとして、よほどイラストが可愛く描かれているかしないと、なんて「ありきたり」の設定なんだと思われ放り出されてしまう。だから「第18回日本ファンタジーノベル大賞」を受賞した仁木英之の「僕僕先生」(新潮社、1400円)が、美少女の仙人が大活躍する話だと聞いて、ライトノベルのファンはどうしてそれで賞がとれるの? なんて驚いて当然かもしれない。

 ストーリーだって割にありがち。仙道に凝りだした元県令の父親の言いつけで、20歳を過ぎても仕事に就かず親の財産を食いつぶしていたニート青年の王弁が、ご近所の里山に住んでいる仙人の庵を訪ねてみたら、そこにいたのは10代半ばの美少女だったと、といった感じ。創造主もお稲荷様も、悪魔も宇宙からの侵略者も超絶的な美少女だったりする話を右から左へと毎日のように読んでいる目には、「仙人少女」なんて女子高生より普通な存在に思えてしまう。

 けれども、キャラクターの新奇性だけが小説の面白さではないことは、似た設定が過去にあっても支持を集めるライトノベルが、幾つ幾つもあることが証明してくれている。「僕僕先生」の場合は、繰り広げられるストーリーのなかで、仙人とはどんな存在で、舞台となっている唐代の中国とはどんな世界かということが、しっかり描かれていているところが大きな魅力だ。

 たとえば、仙人になるのは「仙骨」が必要で、せめて「仙縁」くらいなくては仙人に近づくこともできない、という指摘。僕僕先生と王弁をくっつけようとする作者の創作なんかじゃなく、仙道を語る中国の言い伝えに「仙縁」なるものが本当にあって、それで人間が仙境に招かれたり、美妃から誘われたりしたらしい。

 そんな「仙縁」から僕僕先生の弟子になった王弁が、旅をする先々で出会う仙界や天界の住人たちもまた多彩。働き盛りの中年男といった仙人らしくない風情の司馬承禎は、酒のビンから直接胃袋に酒を取り入れる飲み方をして、自在に陰陽の気を操り雰囲気を変える技を見せて王弁を驚かせる。僕僕先生が異世界の住人から得た痩せ馬は、実は伝説の名馬で、王弁が吹くラッパを聴いて万里を駆けるという真の姿を現す。

 これほどまでに不思議な者どもとの出会いのなかで王弁は、長い時間をかけてでも努力していくことで、人間として成長していけるのだということを知る。親が貯め込んだ使い切れない程の財産が家にあるなら、どうして働かなくてはいけないんだという思いで、怠惰な暮らしを続けていた王弁。それが、最初は美少女の僕僕先生に対する恋心から始まった弟子生活のなかで、自分から動き努力してみようという気持ちを持つようになった。

 それだけ僕僕先生が可愛らしかったから、という理由もあるだろう。けれども、自分の生き方を変えて心底から僕僕先生に私淑するようになったのは、見かけだけでなく生き方・考え方への共鳴があったから。話のなかでは、僕僕先生が民衆の前に出るときに使う、白髭の老人といういかにも仙人といった風情が、もしかしたら真の姿かもしれないと思って、僕僕先生を抱けなかった王弁だったけど、5年の別れを経て再会し、連れだって旅に出るエンディングのその先では、師と弟子として見かけにこだわることなく、心も体もひとつに重ねられるようになったはずだ。

 自立するニート青年の話と同時に、天界や仙界の庇護を離れて人間が自立していく様を描いているのも読みどころ。イナゴの被害を天災とあきらめていた人間が、炎と煙でイナゴを駆除するようになり、人に役立つ品々を持って人里に降りて来ていた仙境に近い住民が、その異形さゆえに恐れられるようになり、仙人がほどこす慈善が、妖異の技と排除される。なんとも味気ない世界だけど、現実の世界には神様や仙人による奇蹟なんて起こらない。すべてを人の手でやらなくてはいけない。奇蹟に頼らず自立せよ。そんな決意を「僕僕先生」は芽生えさせる。

 一人称が「ボク」で、変幻自在の技を使うスーパー美少女が、時に厳しさを見せつつどこか自分に好意を抱いて、あれこれ世話をやいてくれる状況を味わうだけでも充分に面白い。加えて得られる豊富な知識と強いメッセージにどっぷりと浸れる小説を、ライトノベルじゃないからといって読まないでいるのは勿体ないし、表紙のイラストが可愛くないからとらと見逃してしまうのもやっぱり損。生き生きとした描写が、それぞれの頭の中にそれぞれが可愛いと思う僕僕先生の姿を、くっきりと描き出してくれるから。


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