ブラッド
Blood

 もしかすると人間は忌むべき存在なのかもしれない。

 地球上に生を受けたもので、果たして同じ種をこうも易々と殺すことができる生物があるだろうかと考える。野生動物は時に殺し合うこともあるが、それは縄張りを争いボスの権利を荒そう、いわば「生存競争」の上でのこと。弱肉強食の掟はたいがいが食物連鎖の現れであって同じ階梯に属する種が、理由もなく殺し合うなどということはあまり聞かない。

 憎しみや怒り、あるいは欲望といった感情が極限まで高ぶり、「殺人は違法」という心理的なブロックを超えてしまった時などに、得てして殺人は起こる。それをもって「理性のタガが外れ野生がむき出しになってしまったから殺人が起こったのだ」と説明できないこともない。が、しかし野生では同じ種どうしの殺し合いは普遍ではない。野生になったからこそ殺人が減ったと言うならまだしも、野生を殺人の理由にするのはどうにも納得が行かない。もしそうなのだとしたら、人間の野生はひどく特殊なものになってしまう。

 知性があるからこそ殺人が起こるのだという説明ではどうだろう。「殺してやりたい」「殺さなくては自分が浮かばれない」。人間だけが有する知性の無限大の拡大が、同種の殺害を忌避する野生を抑えるからこそ起こる殺人なのだ。そう考えると今度は知性を持つが故に人間は他の生物に比べてとてつもなく特殊な存在になっていると言えそうだ。

 野生も特殊、知性も特殊。いずれにしても人間は、この地上において唯一の「仲間殺し」を行う存在ということになる。

 やはり人間は忌むべき存在なのだろうか。

 たぶんそうなのだろうと、倉阪鬼一郎の「ブラッド」(集英社、1500円)を読んで強く思う。アミューズメントパークらしき施設が建設されたある街で、何とも奇怪な事件が次々と起こり始める。家族連れで来店していたファミリーレストランで、ウェイトレスが突然フォークを手にとり子供の目玉をえぐり顔中を突き刺して母親ともども死にいたらしめる。そのニュースがテレビで放映されていた別の店では、料理を口にしていた男が店内にいた女性の額にステーキナイフを突き刺して殺す。

 惚けたように奇妙な童謡を口ずさむ殺人者たち。警察で調査にあたっていた刑事はやがて同窓会のパーティーで拳銃を乱射し大勢を殺し、事件の謎を追いどうやら1冊の私家版の本に原因があるらしいことをつきとめた作家も、入り浸っているバーで開かれた自分を祝うパーティーの席上に猟銃を持ち込み乱射する。

 貴族薫といういかがわしい名前を持った人物の書いた、「子供を悪魔にする方法」という本を手にした者は次々と殺人者の輪に加わる。新聞記者は資料室で悶死し、批評家は妻を刺して自らも命を絶つ。そうでない者も例えば霊能者はサディスティックな欲望の果てに信者を危め、女の精神科医は行きずりの男と寝てから相手の首を締める。何が彼らを、彼女たちを殺人者にしてしまったのか。むき出しになった野生か、それとも暴走した知性か。

 立ち現れてくるのはまさしく「悪魔に」された「子供」。だが、それとて人間の調教によって、教育によって「悪魔」となっただけに過ぎないのではないか。調教が、教育が例えば超越的な野生の能力を引き出したにしても、あるいは知性の冴えを極限を超えて高めたにしても、人間という土台があってこそのものではないのか。

 ラストシーンに絶ち現れる弱肉強食の光景は、なるほど「野生の目覚め」に見えなくもないが、だとしたら人間の野生はやはり特殊なのだとしか言いようがない。あるいは「悪魔」に操られているのだとしても、野生を操ることの困難さと裏返しの、知性があるからこそ容易に操ることができるのだという、人間なればこその特殊性が浮かび上がる。

 物語に特徴の「主人公」などという概念をあっさりと投げ捨て、冒頭からラストシーンまで殺人の描写が続く展開、誰が本当に生き残るのかという予想を徹底して拒否する姿勢の果てに描かれた、次々と人が殺害されていく様を見るにつけ、何とも言えない「壮快感」を覚えるのは何故だろう。それは「法」などいう浅知恵の産物を、無視するにしても凌駕した別の知恵を持ち寄るにしても、既成の枠組みを逸脱した場所にある人間の本性が、殺人を快楽と認めているからなのかもしれない。

 確信した。人間は忌むべき存在なのだ。


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