ビアンカ・オーバースタディ

 ライトノベルだとか、メタライトノベルだとかアンチライトノベルだといった前説でもって語られ、そういった読み方を作者自身も誘っていたりするけれど、読めば何のことはない筒井康隆による「ビアンカ・オーバースタディ」(星海社FICTIONS、950円)は、誰に憚ることなく筒井康隆の小説、そのものだった。

 例えばあのラスト。まずもって話を一段落させた後で、もう1発のネタをぶん投げて見せて、これはいったいどうしたものかといった感じに余韻を与えてページを閉じさせる。

 あれは確か「講演旅行」という中編だったか。講演に出むいてそれが楽しいと編集者に言ったらそれは良かったと次々に講演をいれられ、いつまで経っても東京へと戻れないとぼやく作家に対して編集者が牙を見せ、「あんたまだ帰れると思っているのかい」とダメを押して震え上がらせた。そんな感じに近いというか、ちょっと違うというか。

 いずれにしても、読み終えて残るのはスッキリとした感動というよりは、ぐふふといった苦笑いと、うむむといった驚きか。そんな傾向を持った作品はライトノベルではあまりなく、一般小説でも筒井康隆をのぞいてほかにそれほど多くない。だからそうした終わり方をする「ビアンカ・オーバースタディ」は、ライトノベルではなく、それをメタにしたものでもない。

 筒井康隆というジャンル。それに、まさにぴったりとハマった作品だ。

 ライトノベルの美少女ヒロインは、男子生徒にスキンを被せて精子を抜いたり、生理の時に出てきた自分の卵子に精子を受精させたりしないだろう、そこがアンチだのメタだのといったスタイルの現れだというといった意見も出てきそう。

 けれども、それは違う。筒井康隆は昔から青少年に激しく卑猥なことをさせていた。オナニーの快感でテレポーテーションができるようになった世界が舞台の「郵性省」なんて、学園きっての美少女が、遅刻するのを嫌さにオナニーをして上記した姿で学校に現れる場面なんかを描いていたりする。

 それを思えば、男子生徒をしごいて精子を抜くなんて可愛いもの。ありのままの筒井康隆がそこに現れたに過ぎない。それがたまたま、今時のライトノベル的なレーベルと言われている星海社FICTIONSから刊行されただけのこと。驚くことは何もない。ああまた筒井がヘンなものを書いているなあと思うだけだ。昔ながらのツツイストなら。

 とはいえ、今時の若い読者は、「郵性省」も読んでいなければ、「陰悩録」だって「だばだば杉」だって読んでない。それらが普通に中高生にも読まれていた時代を経ていない世代にとっては、パンツが見えるとかおっぱいが揺れるといったエロスはあっても、美少女が精子を抜き取るなんてエロを小説で読むなんてことは、ほとんどなかった。

 それはライトノベルというレーベルが、いつしかそうした直裁的なエロをセーブしつつ、仄めかすエロスを尊び、ちょっぴり見せするような感じで官能を煽っていたからで、そこにかつての爆発的なエロを叩き込んで見せたという意味では、なるほどアンチライトノベルと位置づけられるのかもしれない。あるいは、ライトノベルの最先端に見えて実は前時代的な形式に挑んで、ひっくり返して見せたメタライトノベルだという言い方もあるかもしれない。

 そうした形式を云々する議論をすっ飛ばせば、「ビアンカ・オーバースタディ」は実に現代を風刺してみせたSF作品で、男子が軟弱になった一方で、美少女が男子生徒を脅かしなだめすかして精子を絞り取り、さらにはもっと精子が必要だと言われて、別の少女ヤクザの金玉お切り取ってしまうような状況は、過激なようでまるで過激ではないエロスがはびこる風潮への、大いなる風刺となっている。

 なおかつ、未来はさらに男子は軟弱になっていて、女性を襲うなんてこともしないで、せいぜいが眺めてオナニーをするくらいで、そんな男子の衰弱した精子は数も少なければ動きも弱いとうビジョンもまた、未来を予感したSFと言えるだろう。だからこそ、その時代の少年が、「時をかける少女」よろしく過去というか、ヒロインたちがいる現代へとタイムトラベルしては、未来の巨大化したカマキリに対抗できるカエル人間を育てて放ち、戦わせようとした。

 もっとも、やり過ぎれば歴史が歪むのは必定で、そうした未来改変の難しさへの言及を添えてみせたあたりが、さすがは星新一、小松左京と並ぶ御三家と呼ばれたSF作家にして、あの傑作「時をかける少女」を書いた筒井康隆だけのことはある。

 加えて、遅れ遅れになった最終章の執筆が、おそらくは震災以降になったことで、原発への言及がなされるようになって、それがまた未来を推測するSF作家らしさを醸し出している。反原発を進めた代わりに化石燃料に依存したら、温暖化が進んで陸地が減って、人類がさらに衰退しましたという未来のビジョン。それを描いて、そうなる可能性があっても原発はノーなのかと問いかけてみせる。

 なるほど、単純に時代の空気に流される世間一般の作家とは違う、その道で50年近く食べている筋金入りのSF作家で、社会派作家だけのことはある。もしも今、筒井康隆が全盛期にあったら反原発に凝り固まった運動を、いったいどういった筆致で揶揄してくれたかが非常に気になる。もっとも、77歳の喜寿を迎えて執筆意欲も減退して、「ビアンカ・オーバースタディ」の続きすら書けなさそうなのが残念。太田が悪い。

 それでも読みたいこの続き。小松左京の「日本沈没」を谷甲州が引き継いで「日本沈没 第二部」を書いたような、あるいは伊藤計劃の遺稿「屍者の帝国」の続きを円城塔が書いたようなリレー形式で、誰かが手を挙げて書いてくれないものだろうか。

 とはいえ、あの筒井康隆ならでは現代を風刺する毒と、未来を見通す聡明さと、それでいて読んで面白いエンターテインメント性をまとめて表現できる作家がいるだろうか。我こそはと思うなら手を挙げよ。77歳の老作家に挑まれ、易々と超越された若いライトノベルの作家から是非に、誰か。


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