ビーチ
The Beach

 30年近くも前の、あの冬山のベースで起こった惨劇を知識として知っている。真夜中の屋外に針金で縛り付けたまま放置したという。妊婦の腹を割いて子供だけを取り出そうとしたという。見た訳でもなく聞いた訳でもなくただ本で読んだ知識だけなのだが、それはまさに地獄としか言い様のない光景だっただろうと思う。

 けれども同時にこんな思いが頭をよぎる。惨劇の前、同じ理想郷を求めて集まった数10人の人たちの、心は夢に溢れていたのではないか、幸せに震えていたのではないか、という思いが。理想に燃え希望でいっぱいの若者たちが、周囲に迫る危険を乗り越え理想と希望を実現しようするには団結が必要だ。目的の実現のためにあらゆる困難を排除する勇気が必要だ。例えそれが内に向けられたとしても。だから。

 あんな事が起こったのか否かは、同じ環境に身を置いた、せめて同じ時代の空気を吸った者でないと理解などできないだろう。個人主義との美名のもとで、己の欲望だけを指針に生きる人々のあふれた現代で、往時の熱を知ることはとてつもなく困難だ。だが、1冊の本に描かれた理想郷の崩壊が、何となく往時の気分を今に甦らせているような気がしてならない。理想を秩序で維持した挙げ句に惨劇をもたらし崩壊に至る、そのプロセスが知識として頭に描かれたあの冬山に重なる。

 その本の名は「ビーチ」(アレックス・ガーランド、村井智之訳、アーティストハウス、1600円)という。主人公で物語の語り手となるリチャードは、偶然にも隣り合わせに宿泊したダフィ・ダックと呼ばれた隣人の、うめき漏らした「ビーチ」という言葉を何の気なしに聞いてしまう。だが隣人はリチャードが聞いたことを執拗に追求し、翌朝リチャードに1枚の地図を残して手首を切って自殺する。地図には小島の1つに×の印が付けられ、小さく「ビーチ」と書かれていた。

 同じ宿で知り合った、フランスから来たエチエンヌとフランソワーズのアベックと連れだって、リチャードはその理想郷、珊瑚礁と青い海に囲まれた「ビーチ」を目指して旅に出る。やがて3人は海を泳いで渡った小さな島の、島民たちによって秘密に栽培されてる大麻の森を抜けた場所にあった、噂の「ビーチ」どうにかこうにかたどり着く。そして先に暮らしていた人々との、青い海と豊かな森に囲まれた自然の生活へと身を投じる。

 リチャードたちは自由だっただろうか。親とか法律とか資本主義とかいった、制度や概念からは多分解き放たれていただろう。その意味では確かに理想の世界に彼らは居た。けれども食べるためには糧を得なくてはならない。「ビーチ」に集まった若者たちは、だからそれぞれが役割を持って魚を捕り、畑を耕し、木々を切っては道具を作る。時には米を求めて海すら渡って俗世に足も踏み入れる。

 生きるための本能からは人が絶対に解き放たれはしない。そして男女の本能からも人はなかなかに解き放たれない。いつしか起こる不和。リチャードの幻想に現れては自由である筈の身に懐疑の言葉を投げつけるダフィ・ダックの悪意が、理想の「ビーチ」に次々と人々を招き寄せ、所詮は微妙なバランスの上に成り立っていた「ビーチ」の暮らしが、新たなる異分子への警戒心と、度を増して来た島を牛耳る現地人への恐怖心によって大きく変化する。台頭するのは理想の護持のみに奉仕する集団。そして起こるのは理想の護持に不必要な分子の粛正だ。

 人間は独りでは幸せになんかなれないと言う。だったら大勢いれば幸せになれるのかと、「ビーチ」に集まった人々のたどった運命を見て逆に問い掛けたくなる。理想を求めて集った青年たちが、いつしか理想を維持することだけに賢明となり、本来の目的を見失っていくその様からは、むしろ人間が集団で生きること方が難しいんじゃないかと、そんな思いすら胸に浮かぶ。個を主張し過ぎる蒙昧さももちろん感じるが、同時に個を滅して理想に行きようとする愚劣さも感ぜずにはおかれない。

 ならばどう生きればいいのか。1度は理想の「ビーチ」へとたどり着き、起こる理想郷の崩壊を目の当たりにすべきなのか。個の殻に閉じこもって1人だけの「ビーチ」に身をたゆらせるべきなのか。もちろん崩壊しない「ビーチ」を作って永遠に理想郷で暮らすという選択肢だってない訳ではない。集団を維持するための秩序の圧迫もなく、個の発露による無秩序の暴走もない「理想郷」はいったいどこにあり、どうやったらたどり着けるのか。

 冬山にはなかった。南の島にもなかった「ビーチ」を多分、人は永遠に探してさまよい続けるのだろう。背中に運命というバックパックを背負った姿で。


積ん読パラダイスへ戻る