盤上に君はもういない

 将棋のタイトルで最高峰の竜王位を獲得するなど、藤井聡太四冠が次々と記録を塗り替えている将棋界にあって、未だ達成されていないのが女性棋士の登場だ。女性の棋士なら大勢いるじゃないかといった声も出そうだが、大盤解説などに登場する女性たちや、以前にワイドショーでよく話題にされていた林葉直子さんは、正確には棋士ではなかった。
 プロではあってもそれは女流棋士という制度の中でのプロで、羽生善治九段や藤井四が活躍するプロ棋士の世界とは別の存在だ。プロ棋士とは奨励会に入り、半期ごとに行われる三段リーグで上位2人に入って、四段に昇格した者だけが名乗れる。藤井四冠が最初に話題になったのも、この四段に14歳2か月という史上最年少で昇段した時だった。

 三段リーグで2度、次点となればフリークラスの四段に昇段できる制度もできた。アマチュアとしてプロ棋士相手に優れた戦績をあげたものが、編入のための対局を経て四段の資格を得られる。それでも狭き門であることに違いはない。その壁に過去、幾人もの女性たちが挑んで届かず、跳ね返されてきたのが将棋の世界だ。

 綾崎隼による『盤上に君はもういない』(KADOKAWA、1500円)でもそういった、長い将棋の歴史の中でプロ棋士になれた女性が1人もいないことが最初につづられる。どうしていなかったのか。なかなかの謎だが、奨励会に女性が少なく研究の機会が男性より少ないこと、体力が続かず集中力が途切れて敗着を指してしまうことなど、もっとものようなことが語られている。

 それが真実かは不明だが、厳しいものなのだということは確か。そうした将棋界でまさにプロ棋士の壁に挑もうとしている2人の女性を軸にして、『盤上に君はもういない』という物語は進んでいく。

 まず登場するのが諏訪飛鳥。祖父が永世飛王の称号を持つプロ棋士で、父親も元プロ棋士、母親も女流棋士という家に育った。女性棋士が誕生しない理由として言われる、男性と競い合う機会が少ないというハンディは飛鳥にはなかったはずだった。小学生で女流棋士になり、奨励会に入ってからも16歳で三段リーグまでたどり着く。

 その飛鳥の前に立ちふさがったのが、四段昇段を決めれば14歳1か月という、史上最年少棋士の記録を打ち立てることになる竹森稜太だった。AIを相手に将棋を指し続けて強くなった現代っ子の少年と、棋士一家に生まれた少女という二人だけでも、ライバル描写や恋愛描写を絡めれば、十分に面白い物語になりそうだった。

 そこに綾崎隼は、隠れたところからもう1人の女性を三段リーグに送り込んできた。26歳の千桜夕妃という女性で、体が弱いのか過去に三段リーグを全休したことがあり、飛鳥が参戦した期も序盤に三連敗して昇段戦線から後退していた。

 以後の対局を勝ち続けて飛鳥や稜太に並んできた。稜太の昇段が先に決まり、残る1席を飛鳥と夕妃が争う対局は、飛鳥をヒロインのように読んできた目には、乗り越えるだけの壁に見えた。

 違っていた。

 この大どんでん返しともいえそうな構成に驚かされる。なおかつ、夕妃がその後に見せた生き方に、将棋だけが人生なのか、将棋よりも大切なことがあるのではないか、といったことを強く思わされるのだ。

 この先でしばらく描かれる、夕妃が将棋を指し始めた事情、そして、指さなくなってしまった事情を知ることで、プロ棋士になることだけを目標に将棋を指してきた飛鳥も、天才過ぎる故に成り行きで棋士になってしまった稜太も、現実の奨励会でプロ棋士になろうとあがき続ける“将棋の子”たちも、自分と将棋との関わり方を改めて問い直すことができる。

 飛鳥のように、最上の環境で育まれ、まっすぐに突っ走ってきた才能が、挫折を経験しようとも折れず、ライバルに勝とうという執念を燃やし、前に進み続ける姿に憧れる。稜太のように、天才でありながらも尊大にならず、自分にはない情熱に惹かれ、理解されない恋情を届かせようと頑張る健気さに微笑む。そんな楽しみ方ができる作品だ。

 夕妃のように、病弱で入院していた時に仲良くなったアンリという子供から将棋を習い、のめり込みながらも医者になることだけを父親から求められ、家を捨てプロ棋士の内弟子となって以後、病気と戦いながら奨励会三段にまでたどりついた生き様からは、自分の好きを通し抜く強さを感じれるだろう。

 同時に、それから後の夕妃が見せてくれた、将棋よりも心の深いところに根ざしている、思いを貫き続ける尊さも。もしも本当に女性でプロ棋士が誕生した時にも、棋士としてだけでなく女性として、人間として育んできたその思いに迫るようなストーリーに触れたいものだが、ただ強いと騒ぎ、昼食に何を食べたかを顕名に報じるメディアにそうした熟慮はあるのだろうか。

 そう思うと、どれだけ騒がれようとも我が道を往き、ますます強くなっている藤井四冠の凄みも分かるというものだ。


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