麻子先生の首

 タイミングが悪いといえば、これだけ悪い時期によくぞ出版に踏み切ったものだね。映画監督の高橋玄が、同名の映画を小説にした「麻子先生の首」(古川書房、1300円)のこと。タイトルからして、なにやら猟奇の匂いを感じるし、コシマキにも「薬品棚」とか「生首」といった文字が並んでいる。おまけに主人公の一人が中学三年生の少年と来てるから、神戸で発生した某事件と関連させて取り上げるマスコミが出るんじゃないかって、そんな懸念を抱いた。

 けれども、鵜の目鷹の目でネタ探しに血道を上げるマスコミだって、この「麻子先生の首」を最後まで読み通したら、きっとがっかりするだろう。猟奇を期待して読んだヤジ馬な読者も、やっぱり同じ。しかし、かつて筒井康隆のユーモアSFや、眉村卓のジュブナイルSFに熱中した人ならば、どこか心の琴線に触れる部分があるはずだ。もしかすると、逆鱗(げきりん)かもしれないけどね。

 最初に登場するのは中学三年の少年、川杉渡。夜の仕事をしている母親と二人暮らしだからだろうか、食事の支度も日常生活も全部自分でこなせるしっかり者。そしてどんな時にも冷静で、かつ客観的に自分を見ることができる、ちょっぴり大人びた子供。母親が愛人と暮らし始めるようになって、一人新しい学校に転校していった時も、どうやったら一人ひっそりと学生生活を送れるのか、そんなことばかりを考えている。

 そんな渡を受け入れたクラスの担任が、タイトルにある麻子先生。婚約者がいて、その彼奥野はフリーライターとして、軽い仕事から危ない仕事までいろいろとやって、とにかく糊口を凌いでいる。けれども麻子先生自身は、教育に情熱を持って教員になった訳ではなく、不景気に影響されない職場だからだと、それだけの理由で教師を選んだ「でもしか」な口。それでいて周囲の職業教員をどこか小馬鹿にし、かといって奥野のような情熱馬鹿には、惹かれながらも「支えている」という優越感を持とうとする、アンビバレントな性格を持っていた。

 さて、麻子先生の教室に転校して来た渡は、教壇であいさつしている時に背中をそっと横切った、麻子先生の胸の膨らみの感触に目覚めてしまう。「初めて会った人間の乳房の感触だけで感情的な混乱が発生するなど、非存在性の者を標榜する渡には信じられない現象であり、引いては個体的欲望が何事にも優先する母親の精神性の次元に自分の魂が堕すると言うイメージを渡の暗部に溶解させていた」(39−40ページ)。

 頭の奥に眠っていた別の誰かが目を覚まし、その感覚が何によるものかを実験しなくてはと渡に呼びかけた。転校早々にシメられたから助けて欲しいという、渡の奸計にはまって理科室に呼び出された麻子先生は、クロロホルムをかがされて意識を失い、渡からちょっとした陵辱(?)を受けた。目を覚ましたて逃げだそうとして暴れ、薬が山ほどつまった棚にぶつかってしまった麻子先生。突如誇った光を白煙が晴れた時、麻子先生の身にとんでもないことが起こってしまっていた。なんと「生首」になってしまったのだ。

 ここから物語は、生首「だけ」になってしまった麻子先生を元に戻そうとする、渡と奥野の懸命でドタバタな冒険が始まる。奥野の友人という有名国立大助教授の助言を受けて、渡と奥野は富士の樹海へと麻子先生の生首を運ぼうとした。しかし間の悪いことに、麻子先生と海外旅行に行くために手を染めたヤバい仕事で、奥野は暴力団のヒットマンから狙われる羽目になっていて、家を出たばかりの3人(渡と奥野とそして生首の麻子先生)は、つかまって事務所まで連れていかれてしまった。

 いつも飄々とした奥野や、奥野の友人で「どこでもドア」を研究する大学助教授(研究室には失敗作のピンクのドアがごろごろしてるって描写、絵で見てみたい)、自分たちを映画の主人公になぞらえてカッコばかり付けたがる(けれども実力もある)トニーとミッキーの2人組のヒットマン、そして雑誌「ムー」が好きというトニーとミッキーの上司(つまりは暴力団の組長)と、どこかおかしな登場人物たちは、けれどもみんな大まじめに自分たちの世界を生きている。

 そんな中で、小説のメインとなる渡と麻子先生だけは、世界に対してどこか斜に構えて生きているような気がしてならない。渡は一見超然としているようで、心の奥底に危険な欲望を抑圧していて、ふとしたきっかけでそれが暴走する。麻子先生は教師なんて堅い職業に就きながらも、自分にはない性向を持った無頼の徒に憧れて、けれども今の自分の性格を吹っ切ることが出来ないでいる。どうにも素直じゃない。

 そんな2人の歪んだ心が、「生首」という事件や、どこかおかしな登場人物たちとの邂逅を通して癒されていくプロセスが、たぶん「麻子先生の首」という小説なんだろう。すべてが解決した後で、心のどこかに引っかかっていた刺が抜けた渡は、健全な男女交際を始めた。自分の気持ちを偽って暮らす教師の生活から脱却した麻子先生は、実入りが良いからと英会話学校の講師へと転じた。「生首」なんて不気味なモチーフを使っているけど、この小説、見栄とかプライドとか捨てて素直に率直に大まじめに生きていくことの楽しさを教えてくれる。

 登場人物の一人が、「人間の運命は人間が決める」と言いながら、行き詰まった手相を自ら刻んで難局を脱する場面は、壮絶で滑稽だけど自分の気持ちを偽らずに生きていけと訴えかける。ひるがえって自分を省みると・・・・って、書き始めると愚痴になる。実行する勇気を持たない愚痴はますます意識を歪ませる。為すべきことはだた1つ、手に持ったガラスの破片を生命線に当てて、新しい線をサッと刻み込む・・・ん・・・だぁ・・・。いちちっ。  


積ん読パラダイスへ戻る